6月27日 (火) 後楽園
0 0 0 0 0 0 0 0 1 1 セネタース 22勝19敗2分 0.537 野口二郎
0 0 0 1 0 0 0 1 X 2 ライオン 17勝21敗4分 0.447 福士勇
勝利投手 福士勇 7勝6敗
敗戦投手 野口二郎 14勝9敗
二塁打 (ラ)玉腰
福士勇、3安打完投で野口二郎に投げ勝つ
セネタースは初回、先頭の苅田久徳が中前打で出塁し、横沢七郎が送って一死二塁とするが尾茂田叶は左飛、佐藤武夫は三振に倒れる。2回、3回は三者凡退、4回は先頭の横沢が左前打で出塁するが尾茂田の遊ゴロは「6-4-3」と渡ってダブルプレー。
ライオンは初回は三者凡退、2回は一死後室井豊が中前打で出塁するが岡本利之の三ゴロは「5-4-3」のゲッツー。3回は先頭の西端利郎が中前打で出塁するがセネタース先発の野口二郎に山本尚敏、坪内道則が三振に倒れて無得点が続く。
ライオンは4回、玉腰年男の当りはセカンド苅田を強襲、グラブを弾いて外野に転がる間に玉腰が二塁に走って二塁打とする。水谷則一が投前に送りバントを決めて一死三塁、鬼頭数雄の当りはファースト浅岡三郎を強襲、玉腰がホームに走り浅岡がバックホームするが間に合わず野選となって1点を先制する。
セネタースはライオン先発の福士勇の前に5回~8回は無安打無得点に抑え込まれる。
ライオンは8回、一死後福士が四球を選んで出塁、トップに返り坪内の左前打で一死一二塁、続く玉腰の投ゴロは「1-4-3」と渡ってゲッツーかと思われたがセカンド苅田からの一塁送球が悪送球となる間に二走福士がホームに還って2-0とする。
セネタースは9回、一死後苅田が中前打で出塁、森口次郎、尾茂田が連続四球を選んで一死満塁、佐藤の左犠飛で1点返し走者それぞれ進塁して二死二三塁、続く野口二郎は敬遠されて二死満塁、しかし柳鶴震に代わる代打金子裕は二ゴロに倒れてゲームセットを告げるサイレンが高々と鳴り響く。
福士勇は3安打5四球3三振の完投、野口二郎に投げ勝って7勝目をあげる。野口二郎はこのところ勝ち運に恵まれず三連敗、セネタースも四連敗となった。
ライオンはタイムリーは無かったが1点目は玉腰年男の二塁打と野選、2点目は玉腰の投ゴロが苅田のタイムリーエラーを誘った。
強打ライオン打線の中で右打ちを得意とする巧打が目立つ玉腰年男は来期で兵役に就きプロ野球に復帰することは無かった。戦後は朝日新聞に入社して野球記者として活躍、朝日新聞ですから当然高校野球が中心となります。1973年に「東海野球史」という貴重な文献を著しています。矢張り東海地区の高校野球史に多くのページが割かれており、玉腰年男も東邦商業の中心打者として昭和11年、12年のセンバツに出場したことに触れている。当時の東海地方の最大のスター投手は本日の試合で対戦した中京商業の野口二郎で、当然高校時代も対戦していたでしょう。同著では野口のピッチングを「うなりを立てる快速球と正確無比な制球力は、すばらしい威力を秘めていた。」と表現している。自らの甲子園出場に触れている項の締め括りには「プロ野球は技術的には確かにうまい。客受けのする高度な野球をやる。しかし状況によっては自分を捨てることもあり、年中張りつめた気持ちで野球をやっているわけではない。ノンプロ野球も会社の宣伝を主体としたコマーシャリズムが鼻につくことがある。その点昔の中等野球、いまの高校野球の選手たちには、なんの邪心もない。ただ一個の白球がすべてであり、そして命である。私が高校野球をこよなく愛する原因は、ここにある。」と記されている。
*謹呈本「東海野球史」に記されている玉腰年男の直筆サイン。
*福士勇は3安打完投で7勝目をあげて野口二郎に投げ勝つ。
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