2013年5月31日金曜日

14年目の新人王



 本日のスポニチ一面は大谷でした。即日引用は問題があるかもしれませんがご了承ください。「右肩は全く開かない。ボールとの距離感を保ったまま、巧みなバットコントロールで鮮やかに左前に運んだ。」「渡辺打撃コーチは『凄いねえ。ポイントの持っていき方とスイングの軌道は大したものだ』と舌を巻く」とのことです。


 5月27日付けブログ「初対決」で「ミートポイントまで最短距離で行くバットの出し方、ミートの瞬間に力を集中させることのできる間合いの良さ、バッティングアイの良さ、どれをとっても一流のスラッガーとなる素質の持主」と書かせていただきましたが、それを裏付ける記事であったと思います。世論もそろそろ「打者・大谷説」に傾いてきたようです。流石に気分がいいのでハイボールの飲み過ぎには注意が必要です。


 日ハムの渡辺打撃コーチは1981年秋の入団テストでプロ入りしますが芽が出ず、1995年に突如として開花して「14年目の新人王」と言われた男です。1981年と言えば筆者が社会人デビューした年ですが、14年の間には日経平均株価が5000円台から38000円台まで暴騰してバブルが崩壊しました。81年のダービー馬はカツトップエースで95年はタヤスツヨシです。


 97年に引退後もコーチになったり裏方に回ったりしますが日本ハムファイターズ一筋に33年を過ごして逸材のコーチという重責を担っています。渡辺打撃コーチは「14年目の新人王」と言われた(実際には新人王は獲っていません)訳ですが、1年目の大谷は打者としての新人王候補と言ってよいでしょう。






 

2013年5月30日木曜日

15年 金鯱vs南海 12回戦


10月29日 (火) 甲子園

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 金鯱 25勝55敗7分 0.313 古谷倉之助 中山正嘉
0 0 0 1 0 1 1 3 X 6 南海 24勝61敗6分 0.282 清水秀雄 川崎徳次 政野岩夫

勝利投手 政野岩夫    9勝20敗
敗戦投手 中山正嘉 13勝26敗

二塁打 (南)清水、吉川、政野

勝利打点 上田良夫 2


上田良夫猛打賞

 3回まで両チーム無安打のまま試合は中盤戦に突入する。

 金鯱は4回、一死後森田実が中前にヒットを放って出塁、黒澤俊夫の一塁内野安打で一死一三塁、上野義秋の遊ゴロの間に森田が還って1点を先制する。

 南海は4回裏、一死後吉川義次が四球で出塁、清水秀雄の二ゴロでランナーが入れ替わり、上田良夫が左前打を放って二死一二塁、前田貞行が左翼線に同点タイムリーを放って1-1とする。
 南海は6回、一死後吉川が左翼線にヒット、清水が右中間に二塁打を放って一死二三塁、上田が左前にタイムリーを放って2-1とする。


 南海は7回、二死後木村勉が四球を選んで出塁、岩本義行が中前打、吉川が左中間に二塁打を放って3-1とする。

 南海は8回、先頭の上田が本日3本目のヒットを右前に放って出塁、前田が左前打で続いて無死一二塁、政野岩夫が右中間に走者一掃の二塁打を放って5-1、トップに返り国久松一は三ゴロに倒れ、岩出清が死球を受けて一死一二塁、木村の遊ゴロで岩出が二封されて二死一三塁、岩本が中前にタイムリーを放って6-1として試合を決める。


 上田良夫が4打数3安打1得点1打点の活躍で勝利打点を記録した。上田良夫は兄の上田藤夫(阪急)に比べて日本での実績に乏しくWikipediaにも紹介されていない。上田良夫に関しては永田陽一著「ベースボールの社会史 ジミー堀尾と日米野球」が最も詳しく紹介しています。「1937年マウイ代表チームがカランバ製糖チームの招待でフィリピン遠征した帰りに神戸に立ち寄り、阪急の兄藤夫に『日本で腕試ししたい』とプロ入りの希望を打ち明け、新設されたばかりの南海に雇われた。・・・戦後は朝鮮戦争に従軍し、福岡の芦屋基地に駐屯していたことがある。」上田良夫は今季限りでハワイに帰ることとなる。兄の上田藤夫は今季オフに日本女性と結婚して日本に残り、戦後は名審判として活躍することとなる。


 この試合のターニングポイントは6回表の金鯱の攻撃にあった。この回の頭から南海は先発の清水秀雄に代えて川崎徳次を投入する。しかし川崎は先頭の室脇正信に四球を与え、森田は捕邪飛に打ち取るが黒澤に四球、上野は一飛に打ち取るが中山正嘉にも四球を与えて二死満塁、南海ベンチはここで川崎をあきらめて政野岩夫を投入、政野は松元三彦を遊ゴロに打ち取りピンチを切り抜ける。政野は3回3分の1を投げて1安打2四球1三振無失点に抑えて9勝目をあげ、打っても試合を決める2点タイムリー二塁打を放った。



 政野の2点タイムリーは7回まで3対1でリードして8回に放ったもので試合を決定付けるものとなり、自ら6点目のホームも踏んだ。こんな時に私事で恐縮ですが、昭和50年7月28日、高校2年の夏の神奈川軟式決勝、7回まで3対1でリードして迎えた8回、三番・四番が無死二三塁のチャンスを作って筆者に打順が回ってきました。ここで中前に試合を決定付ける2点タイムリー、更に6点目のホームを踏んで6対1で勝ち神奈川を制しました。神奈川軟式では神奈川新聞に写真入りで報じられるのは決勝戦だけで、筆者の2点中前タイムリーで先輩二人が還ってくるシーンが掲載されました。









*昭和50年7月28日、夏の神奈川軟式決勝、3対1でリードして迎えた8回無死二三塁で筆者が中前に2点タイムリーを放った瞬間。神奈川新聞社のご厚意によりいただいた報道用写真。(平和球場)











                  *その後6点目のホームを踏む。











              *この試合を報じた神奈川新聞。6対1で勝ちました。










 

2013年5月28日火曜日

15年 阪神vs阪急 12回戦


10月27日 (日) 西宮

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 1 1 0 0 0 0 0 0 2 阪神 52勝32敗3分 0.619 若林忠志 木下勇
1 1 0 0 4 0 0 0 X 6 阪急 53勝31敗5分 0.631 浅野勝三郎
 
勝利投手 浅野勝三郎 9勝6敗
敗戦投手 若林忠志  20勝15敗

二塁打 (神)松木、堀尾

勝利打点 フランク山田伝 7


浅野勝三郎、無四球完投

 阪急は初回、先頭の中島喬が遊失に生きると二盗に成功、フランク山田伝が右前にヒットを放ち二盗を決めて無死二三塁、新富卯三郎は右飛に倒れるが浅野勝三郎が四球を選んで一死満塁、山下好一の右犠飛で1点を先制する。

 阪神は2回、先頭の伊賀上良平が三塁に内野安打、カイザー田中義雄が送って一死二塁、松木謙治郎が右越えに二塁打を放って1-1の同点とする。

 阪急は2回裏、一死後黒田健吾が中前打で出塁、上田藤夫が右前打を放って一死一三塁、伊東甚吉がスクイズを決めて2-1とリードする。

 阪神は3回、先頭のジミー堀尾文人が左越えに二塁打、皆川定之は三ゴロに倒れるが、堂保次の二ゴロをセカンド伊東が失する間に二走堀をがホームに還って2-2の同点とする。

 阪急は5回、一死後伊東が汚名挽回の右前打から二盗に成功、トップに返り中島は四球を選んで一死一二塁、山田が中前にタイムリーを放って3-2と勝ち越し、中島は三塁に進み、山田が二盗に成功、新富代わる代打森田定雄が四球を選んで一死満塁、浅野は遊飛に倒れるが、山下好一が押出し四球を選んで4-2、阪神ベンチはここで先発の若林忠志をあきらめて木下勇をマウンドに送るが、井野川利春が右前に2点タイムリーを放って6-2と突き放す。


 浅野勝三郎は6回以降を1安打無失点に抑え、6安打無四球4三振の完投で9勝目をあげる。







         *“二刀流”浅野勝三郎は無四球完投で9勝目をあげる。











 

2013年5月27日月曜日

初対決



 藤浪と大谷の対決は見ものでしたね。


 当ブログが大谷の打者としての素質を推す理由はバッティングアイの良さにあります。バッティングアイを単純に“選球眼”と訳されると困ってしまいますが。当ブログが打者を評価するポイントの一つに“投球の見逃し方”があります。これは好打者の共通項です。


 大谷の左方向への打球の鋭さにも注目が集まってきました。日ハムが大谷を指名した理由もセンバツで見せた第一打席のホームランではなく第三打席でのサードライナーの打球の速さにあったことも知れ渡ってきました。


 逆方向への強い打球という点では落合と清原が双壁であると考えますが、落合も清原もバットに乗せて運ぶという感じでした。掛布は左方向へのホームランを量産するのに数年かかっています。山本浩二は右へのホームランで有名ですが、腰を痛めたため仕方なく左足を開いて右腰を残して右翼スタンドに運ぶ打ち方を編み出したものでこれも30歳を過ぎてからのこととなります。大谷のように最初から“持っている”天性は打者としてこそ生かすべきではないでしょうか。



 当ブログが珍しく藤浪と大谷を追いかける理由は、2012年3月18日付けブログ「二人のダルビッシュ」で「今年のセンバツは近年では最も面白くなりそうです。」と書いてしまったがため、アフターフォローする責務を感じているからです。当ブログは近年のプロ野球は見ていませんが、高校野球は人並みには見ています。したがって、プロ野球選手についてコメントするケースは高校時代から注目している選手に限らせていただいております。


 当ブログが高校時代から注目してきた選手がプロでも活躍するとは限りません。失敗事例は腐るほどあります。95年ロッテドラフト1位指名の澤井良輔は当ブログが近年では最も燃え上がった選手でした。銚子商業ということで熱くなりすぎたことを反省しておりますが、高校時代は「西の福留、東の澤井」と言われたのも事実です。プロではとても成功したとは言える成績ではありませんでしたが、甲子園で見せた内角球の捌き方に惚れ込んだものです。2004年日ハムドラフト8位の鵜久森淳志も自信があったのですが、未だにとても成功したとは言える成績は残していません。ピッチャーでは2000年巨人ドラフト4位の根市寛貴も当ブログ一押しの選手でした。光星学院(現・八戸学院光星高等学校)時代は背番号3の控え投手で全く注目されていませんでしたので巨人が4位指名しただけでも良しとしなければなりませんが、プロでは一軍での登板はありませんでした。3回戦の九州学院戦はアンダーハンドのエース斎藤が完投勝ちしていますが、優勝候補の樟南との対決となった準々決勝では根市が完投勝ちしています。


 こう書くと“見る目がないだけ”と言われそうなので、成功事例を一つだけご紹介させていただきます。2010年4月30日付けブログ「イーグルスvs大東京 2回戦」において「因みに浅村は現若手では私の一押しの選手」と書かせていただいております。浅村栄斗は2010年は30試合しか出場していません。2013年5月27日現在パ・リーグ打点ランキングではトップの中田、ブライアン・ラヘアに3打点差で5位に付けています。打順を考えれば上出来を通り過ぎていると言えるでしょう。因みにこれまで当ブログで推した選手は浅村栄斗しかいませんので、下手な鉄砲を数撃って当った訳ではありません(笑)。



 ともあれ、大谷は打者で行くべきであるという考え方はセンバツ開幕前の2012年3月18日以来変わりはありません。ミートポイントまで最短距離で行くバットの出し方、ミートの瞬間に力を集中させることのできる間合いの良さ、バッティングアイの良さ、どれをとっても一流のスラッガーとなる素質の持主であると考えています。








 

15年 名古屋vsライオン 12回戦


10月27日 (日) 西宮

1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
1 0 1 0 0 0 0 1 0  3 名古屋   49勝35敗5分 0.583 松尾幸造 西沢道夫
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0 ライオン 23勝63敗4分 0.267 福士勇 井筒研一

勝利投手 松尾幸造 10勝11敗
敗戦投手 福士勇       7勝17敗
セーブ      西沢道夫 2

二塁打 (名)桝 (ラ)鬼頭
三塁打 (ラ)広田

勝利打点 大沢清 9


完封リレー

 名古屋は初回、先頭の村瀬一三が四球で出塁、芳賀直一が右前打を放って無死一二塁、桝嘉一が送りバントを決めて一死二三塁、大沢清の一ゴロの間に村瀬が還って1点を先制する。

 名古屋は3回、先頭の桝が左中間に二塁打、ライオンベンチはここで先発の福士勇から井筒研一にスイッチ、大沢が右前打を放って無死一三塁、吉田猪佐喜の遊ゴロ併殺の間に三走桝が還って2-0とする。この場合は吉田には打点は記録されません。

 名古屋は8回、先頭の村瀬が四球で出塁、芳賀の三ゴロをサード鬼頭政一が一塁に悪送球、桝が四球を選んで無死満塁、大沢は二飛に倒れるが、吉田が押出し四球を選んで3-0とする。

 ライオンは8回、一死後広田修三が右中間に三塁打、井筒は浅い右飛に倒れ、トップに返り坪内道則が四球を選んで二死一三塁、ここで名古屋・小西得郎監督は先発の松尾幸造に代えて西沢道夫をマウンドに送る。西沢は期待に応えて村上重夫を左飛に打ち取りこの回も無得点。

 西沢は9回のライオンの反撃を三者凡退に退けて当ブログルールによりセーブを記録する。名古屋は松尾から西沢につないでライオン打線を完封した。小西得郎監督快心の投手リレーであった。


 翌日の読売新聞に掲載されているこの試合の選評は僅かに4行で終わっている。このところ急激に字数が少なくなってきている。物資が窮乏し、いよいよ戦時体制に突入してきていることがこのような事象からも読み取れる。その少ない字数が伝えるところによると、ライオン先発の福士勇は「肘の痛みが去らぬ」とのことです。








               *名古屋は松尾幸造から西沢道夫につないで完封リレー。











*快心の継投策を見せた小西得郎監督のサイン色紙。「なんと~申しましょうか」が入っているので戦後のものです。












 

2013年5月26日日曜日

15年 巨人vs金鯱 12回戦


10月27日 (日) 鳴海

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 2 3 0 1 6 巨人 64勝25敗 0.719 須田博
0 0 0 0 0 2 0 0 0 2 金鯱 25勝54敗7分 0.316 内藤幸三

勝利投手 須田博  33勝11敗
敗戦投手 内藤幸三 3勝9敗

二塁打 (巨)白石、中島、須田、永澤

勝利打点 白石敏男 7


中島治康3打点

 金鯱は10月12日の11回戦で巨人打線を1安打に抑えた内藤幸三が先発、巨人は須田博で迎え撃つ。

 内藤は5回まで巨人打線を1安打無得点に抑える。

 二試合連続で内藤に1安打に抑えられる危機に瀕した巨人は6回、先頭の白石敏男が左中間に二塁打、水原茂が四球でつないで無死一二塁、中島治康が左中間に二塁打を放って1点を先制、川上哲治は捕邪飛を打ち上げるがキャッチャー松元三彦が落球、命拾いした川上の左犠飛で2-0とする。

 5回まで須田から4安打を奪いながら無得点を続けてきた金鯱は6回裏、先頭の黒澤俊夫が四球で出塁、上野義秋が右前打を放って無死一二塁、松元は遊飛に倒れて一死一二塁、ここで内藤が右中間に二塁打を放って二者を迎え入れて2-2の同点に追い付く。

 巨人は7回、先頭の平山菊二が三塁に内野安打、呉波が死球を受けて無死一二塁、須田の送りバントが内野安打となって無死満塁、トップに返り白石が押出し四球を選んで3-2、水原は遊飛に倒れるが、中島が左前に2点タイムリーを放って5-2と突き放す。

 巨人は9回、二死後7回の守備から川上に代わってファーストに入っている永澤富士雄が右中間に二塁打、ライト室脇正信からの返球が逸れる間に永澤は三塁ベースを蹴ってホームに還り6-2として試合を決める。記録は二塁打とライト室脇の悪送球であった。

 須田博は6安打4四球9三振の完投で33勝目をあげる。


 本日は鳴海球場で巨人vs金鯱戦が行われました。大和球史著「真説 日本野球史」によると「昭和11年2月14日、横浜出帆の秩父丸で、巨人軍は、第二回アメリカ遠征に向かったが、送別試合と銘打って、2月9日から巨人対金鯱三連戦が、名古屋の鳴海球場で行われた。・・・日本初のプロ球団同士の試合は、こうして2月9、10、11日の3日間、名古屋市郊外鳴海球場で行われた。」とのことです。


 公式戦では昭和13年5月15日に鳴海球場でジャイアンツvs金鯱戦が行われました。公式戦における鳴海球場での巨人vs金鯱戦は本日が2度目ということになります。







                 *須田博は6安打完投で33勝目をあげる。









     *中島治康が3打点を記録した巨人打線。















*昭和11年4月15日付けで日本職業野球聯盟広報の第一号が発刊されました。この号に昭和11年2月9日~11月に巨人vs金鯱戦が行われたことが書かれています。














    *巨人の第2回アメリカ遠征の壮行試合として行われたものなので公式戦ではありません。










            *金鯱の欄にも巨人に勝った試合が掲載されています。







*当ブログが所有する聯盟広報及び聯盟ニュースは、鈴木惣太郎氏が保存されていたものです。










 

2013年5月25日土曜日

15年 翼vs黒鷲 12回戦


10月27日 (日) 鳴海

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 3 0 0 0 0 0 0 3 翼     45勝33敗10分 0.577 野口二郎
0 0 0 1 0 2 0 1 X 4 黒鷲 42勝42敗4分 0.500   長谷川重一

勝利投手 長谷川重一 12勝9敗
敗戦投手 野口二郎     28勝11敗

二塁打 (黒)長谷川

勝利打点 岡田福吉 4


黒鷲、勝率5割に戻す

 翼に中村信一が還ってきました。12年秋季シーズン後兵役に就いていましたが、昭和15年10月6日付け読売新聞は「セ軍の中村(信)復帰」の見出しで「攻守快打を謳われた東京セネタース中村遊撃手はこの程帰還、5日同軍に復帰登録した。」と報じています。復帰初戦の本日は一番サードでの登場となりました。復帰報道時点ではまだチーム名はセネタースでしたが復帰時点では翼に変わっています。

 翼は初回、先頭の中村信一がいきなり中前打を放って健在ぶりをアピール、高橋輝彦は三邪飛、野口二郎の投ゴロ併殺でこの回は無得点。

 翼は3回、先頭の佐藤武夫が四球で出塁、横沢七郎の送りバントが野選を誘い無死一二塁、トップに返り中村もストレートの四球で無死満塁、高橋の三ゴロで三走佐藤は本封、野口が右前に2点タイムリーを放って三走横沢に続いて二走中村もホームを駆け抜け2-0、一走高橋も三塁に進み、小林茂太の中犠飛で3-0とする。

 黒鷲は4回、先頭の中河美芳が右前打で出塁、長谷川重一の右中間二塁打で中河が還って1-3とする。

 黒鷲は6回、先頭の長谷川の左飛をレフト西岡義晴がエラー、寺内一隆の当りは右前に飛ぶがライト山崎文一が二塁に送球して一走西岡はフォースアウト、ライトゴロが記録されて一死一塁、ここで木下政文が左翼スタンドにツーランホームランを放って3-3の同点に追い付く。

 黒鷲は8回、一死後清家忠太郎が右前打で出塁、山田潔の三ゴロの間に清家は二進、トップに返り岡田福吉が左前に決勝タイムリーを放って逆転勝利を飾る。

 長谷川重一は6安打5四球無三振の完投で12勝目をあげる。


 戦地から帰還してきた中村信一は3打席2打数1安打1得点1四球を記録して、5回の守備から退いた。当然、まだ体力が恢復していないのでしょう。当ブログは戦前屈指のショート・ストップは中村信一であったと考えています。昭和11年にセカンド苅田久徳、サード高橋輝彦と組んだ「百万ドル内野」はあまりにも有名です。法政大学時代に名ショートと謳われた苅田久徳はプロではフランキー・フリッシュに触発されてセカンドに回ります。そこでキーストーン・コンビを組む相棒として目を付けたのが法政の後輩である中村信一でした。


 苅田久徳の自伝「天才内野手の誕生」には百万ドル内野誕生までの道のりが書かれています。「二塁ベースに入ると、私は一球ごとに、遊撃手からのトスに注文をつけた。法政の後輩、中村信一が顔を真っ赤にして、遊撃のポジションを死守している。私が明け渡したショートストップ。それだけに、中村にかかる負担は大きかったろう。先輩としては、「シャープに動いてほしい」と思うし、中村自身が、何よりプレッシャーに押しつぶされそうな表情だった。『苅田の跡を汚してはならない』そんな気迫がいつも伝わってきた。・・・キーストーン・コンビの呼吸がぴったり、というのは、流れに停滞がなく、淀みなくスパッと決まること。・・・中村信-苅田、三塁高橋輝彦-苅田へのボールの転送は、何百回、何千回となく積み重ねられた。中村信も、高橋も、よくついてきた。」 







                *長谷川重一は6安打完投で12勝目をあげる。













 

2013年5月24日金曜日

野手投げ



 日本ハムの大谷がピッチャーとしてデビューしました。相変わらずの野手投げですね(笑)。


 センバツの前にも指摘させていただきましたが、あの投げ方ではコントロールは付かないと思います。身体のバランスがいい藤浪との違いは歴然としているにもかかわらずマスコミの扱いは大谷の方が評価が高いように見えてしまうのが不思議なところです。何度でも書きますが、大谷が大投手に成長したら当ブログの無能ぶりを笑ってください。打者としての素質を生かすべきであると考えます。肩が強いだけでピッチャーが務まる程プロの世界は甘くはありません。


 興南高校の島袋は173センチ、桐光学園の松井は174センチ、浦和学院の小島(オジマ)は174~175センチです。何故彼らが193センチの大谷よりもピッチャーとしての実績が上であるかをよく考えてみるべきではないでしょうか。ピッチャーにとって重要なのは身長ではなく、身体のバランスです。身体のバランスが良く、腕の振りがいいピッチャーのボールにはキレがあります。だからバッターボックスでは打者には球速よりも速く見えます。大谷の157キロは当ブログには棒球に見えます。クルーンの球質と同じに見えてしまいます。



 まぁ、専門家の方々は皆さん分かりきっているのでしょうが、現在のプロ野球ミニバブル状況で下手に批判するのも損だから黙っているのでしょう。この状況を当ブログは「互助会」と呼んでいます。但し現実は厳しいものです。本日は日経平均株価が1,000円以上の下げとなりました。株の場合は「初押しは買い」と言っていてもいいのでしょうが、大谷投手株は当ブログではカラ売りを推奨します。全員が買っている時は一人売り向かう、負けたら土壺にハマりますが(笑)。





 

2013年5月23日木曜日

15年 阪急vs南海 11回戦


10月26日 (土) 西宮

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15  計
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0   0   0   0   0   1   1 阪急 52勝31敗5分 0.627 石田光彦
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0   0   0   0   0   0   0 南海 23勝61敗6分 0.274 政野岩夫

勝利投手 石田光彦 15勝10敗
敗戦投手 政野岩夫   8勝20敗

二塁打 (急)浅野 

勝利打点 なし


ウエスト暴投

 阪急・石田光彦、南海・政野岩夫の投げ合いは延長15回、石田に軍配が上がった。

 阪急は初回、先頭の西村正夫が四球で出塁、二死後浅野勝三郎が左翼線に二塁打を放って二死二三塁、井野川利春は遊直に倒れてスリーアウトチェンジ。南海先発の政野は2回~5回を三者凡退に抑える。

 南海は3回まで4安打を放つが無得点。3回は二死満塁を逃した。4回は一死一塁から政野が三ゴロ併殺、7回も一死一塁から国久松一が三ゴロ併殺に倒れる。9回は一死後前田貞行が遊失に生きるが二盗に失敗。

 阪急は9回まで政野に3安打に抑えられる。10回~12回は無安打、13回二死後井野川が左前打を放つが黒田健吾は中飛に倒れて無得点。

 南海は12回に初めて三者凡退でここまで10残塁を記録する。

 阪急は15回表、一死後フランク山田伝の二ゴロをセカンド国久が一塁に悪送球、山田は二塁に進む。新富卯三郎の右前打で一死一三塁、浅野は四球を選んで一死満塁、次のプレーはスコアカードの記載では「2-5」で三走山田がタッチアウト、二走新富は三塁に、一走浅野は二塁に進んでいる。ということはスクイズを外されて三走山田が憤死したものでしょう。その次のプレーを翌日の読売新聞は「満塁策を採った際暴投で新富が生還」と伝えている。二死二三塁となって井野川を歩かせて黒田で勝負と思ったところでウエストボールがワイルドピッチとなった。

 南海は15回裏、一死後国久が四球で出塁、岩出清が左前打を放って一死一二塁、しかし木村勉のセカンドライナーに国久が飛び出してダブルプレー。

 石田光彦は15回を投げて8安打8四球7三振で今季3度目の完封、15勝目をあげる。

 政野岩夫も15回を完投して5安打9四球1死球5三振。翌日の読売新聞は「南海政野の低目を衝く球は手許で球速を増して阪急打者を振り遅らしめ・・・」と伝えている。


 1997年7月、各校関係者がスピードガンを持って見守る中で行われた横浜高校vs横浜商業戦、2対1で横浜高校リードで迎えた9回裏Y校(横浜商業)の攻撃、2対2の同点に追い付かれてなお一死一三塁のピンチを迎えた2年生の松坂大輔は左の九番打者に対してスクイズを警戒し、三塁ランナーをチラッと見てからウエストボールを投げたがこれが右に大きく外れてワイルドピッチ、Y校(横浜商業)が3対2で逆転サヨナラとなりました。あれから16年、若年寄・松坂の復活はあるのでしょうか?







               *石田光彦は15回を完封して15勝目をあげる。













      *延長15回を戦った阪急打線。












      *延長15回を戦った南海打線。













 

15年 ライオンvs名古屋 11回戦


10月26日 (土) 西宮

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 2 0 0 0 0 1 0 3 ライオン 23勝62敗4分 0.271 近藤久 福士勇
0 0 0 0 0 0 0 2 0 2 名古屋  48勝35敗5分 0.578 河村章 村松幸雄

勝利投手 近藤久 8勝18敗
敗戦投手 河村章 2勝3敗
セーブ      福士勇 2

二塁打 (ラ)灰山、坪内 (名)西沢

勝利打点 坪内道則 2


坪内道則、決勝二塁打

 ライオンは2回、一死後灰山元章が右中間に二塁打を放つが後続なく、この回は無得点。

 ライオンは3回、先頭の広田修三が四球で出塁、近藤久が一塁に内野安打、トップに返り坪内道則が左翼線に先制の2点タイムリー二塁打を放って2-0とする。

 名古屋は3回まで三者凡退。4回、一死後芳賀直一が中前打、桝嘉一の遊ゴロの間に芳賀は二進、大沢清の遊ゴロをショート前田諭治がお手玉するが三塁ベースをオーバーランした芳賀を前田が刺してスリーアウトチェンジ。

 名古屋は5回、先頭の吉田猪佐喜の二ゴロをセカンド玉腰年男が一塁に悪送球、中村三郎が中前打を放って無死一二塁、しかし二走吉田がキャッチャー広田からの牽制球に二三塁間に挟まれて憤死、二死後岩本章が四球を選んで一二塁とするが河村章は遊ゴロに倒れる。6回、7回と先頭打者が出塁するが後続なく無得点が続く。

 中盤は立ち直った河村に抑えられてきたライオンは8回、先頭の玉腰が四球を選んで出塁、野村高義の二ゴロをセカンド中村がエラー、鬼頭数雄の遊ゴロで野村が二封されて一死一三塁、戸川信夫の遊ゴロで三走玉腰が突っ込むがショート村瀬一三からのバックホームにタッチアウト、鬼頭政一は三邪飛を打ち上げて万事休すかと見えたがサード芳賀が落球、命拾いした鬼頭(弟)は四球を選んで二死満塁、前田が左前にタイムリーを放ち貴重な追加点をあげて3-0とする。

 名古屋は8回裏、先頭の岩本が四球を選んで出塁、河村に代わる代打西沢道夫が左中間にタイムリー二塁打を放って1-3、ライオンベンチは好投を続けてきた近藤を下げて福士勇をリリーフに送る。トップに返り村瀬が四球を選んで無死一二塁、芳賀の一塁線送りバントをファースト玉腰が失して犠打エラーが記録され無死満塁、桝の左犠飛で2-3、大沢が四球を選んで一死満塁、しかし吉田のショートライナーに二走芳賀が飛び出しショート前田が二塁ベースを踏んでダブルプレー。

 福士は最終回の名古屋の反撃を三者凡退に抑えてライオンが逃げ切る。


 この試合で先制二塁打を放ち勝利打点をあげた坪内道則と、この試合で代打に登場して二塁打を放った西沢道夫は戦後師弟関係を結ぶこととなる。坪内は自伝「風雪の中の野球半生記」の中で「西沢道夫との思い出は、私の野球人生のかなりの部分を占める。」とした上で、西沢をゴールドスターに引っ張った経緯について書いている。戦争で肩を痛めて復帰した中部日本ではベンチを温めることが多かった西沢を見て「『よし、西沢をもらって、打者で使ってみよう』と頭にひらめくものがあった。西沢は、投手とはいえ、常々、そのセンター返しのバッティングのうまさに私は非凡なものを感じていた。」、「西沢に、打者へ変わることを前提にした移籍の意思があるかどうか聞いてもらった。5日後に届いた返事は『バットマンとして、第二の人生に挑戦してみる』だった。まだ25歳。」


 戦後、ゴールドスターの監督兼任選手となる坪内の脳裏には、この試合で見せた西沢のバッティングもインプットされていたのでしょう。





 

2013年5月22日水曜日

15年 巨人vs黒鷲 12回戦


10月26日 (土) 鳴海

1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
2 3 0 1 1 1 0 0 0  8 巨人 63勝25敗 0.716 中尾輝三 須田博
0 1 0 2 1 2 1 0 0  7 黒鷲 41勝42敗4分 0.494 亀田忠

勝利投手 中尾輝三 21勝10敗
敗戦投手 亀田忠     22勝19敗
セーブ     須田博    3

二塁打 (巨)中島 (黒)岡田、亀田

勝利打点 川上哲治 14


黒鷲追い上げならず

 巨人は9月29日以来怪我で戦列を離れていた千葉茂が五番セカンドで復帰。

 巨人は初回、先頭の白石敏男がストレートの四球で歩くと二盗に成功、水原茂も四球を選び中島治康が送りバントを決めて一死二三塁、川上哲治が右前に先制の2点タイムリーを放って2-0とする。

 巨人は3回、先頭の平山菊二の遊ゴロをショート宗宮房之助がエラー、呉波の二ゴロでランナーが入れ替わり呉が二盗に成功、中尾輝三は三振に倒れるがトップに返り白石が四球を選んで二死一二塁、水原の遊ゴロを又も宗宮が失する間に二走呉が還って3-0、中島が中越えに走者一掃の二塁打を放って5-0とする。

 序盤で巨人が大量リードしたこの試合は意外な展開を見せた。

 黒鷲は2回裏、先頭の亀田忠が左前打、玉腰忠義も左前打で続いて無死一二塁、木下勇の中飛で二走亀田はタッチアップから三塁に進み、清家忠太郎の中犠飛で1-5とする。

 巨人は4回、先頭の中尾がストレートの四球、白石も三打席連続の四球を選び、水原の投ゴロの間に二者進塁して一死二三塁、中島の中犠飛で6-1と突き放す。

 黒鷲は4回裏、先頭の玉腰が左前打、木下が四球を選んで無死一二塁、二死後岡田福吉が右中間に2点タイムリー二塁打を放って3-6と追い上げる。

 巨人は5回、先頭の千葉茂が右前打、吉原正喜が四球を選び、平山の遊ゴロで吉原は二封、平山の二盗の際にキャッチャー清家からの送球をショート山田潔が失する間に三走千葉が還って7-3とする。

 黒鷲は5回裏、先頭の太田健一が中前打、中河美芳は三振に倒れるが、亀田が右翼線にタイムリー二塁打を放って4-7と喰らい付く。

 巨人は6回、一死後中島が右前打、川上の二ゴロの間に中島は二進、千葉が中前にタイムリーを放って8-4と突き放す。

 黒鷲は6回裏、先頭の木下が左前打、清家は右飛に倒れるが山田の二ゴロをセカンド千葉がエラー、トップに返り岡田が四球を選んで一死満塁、岩垣二郎が右前にタイムリー、二走山田の本塁突入はライト中島からのバックホームにタイミングはアウトであったがキャッチャー吉原が後逸して山田がホームイン、6-8と追い上げる。なお一死二三塁で太田の二ゴロに三走岡田はホームを狙うが三本間に挟まれ「4-2-5-6-1」と転送されてタッチアウト。中河も二ゴロに倒れてスリーアウトチェンジ。

 2点差に迫られた巨人は7回から中尾に代えて須田博をマウンド送り込む。

 黒鷲は7回、先頭の亀田がピッチャー強襲ヒット、玉腰が四球を選んで無死一二塁、木下の三ゴロは「5-4-3」と渡ってダブルプレー、清家が四球を選んで二死一三塁、山田が右前にタイムリーを放って7-8と遂に1点差まで追い上げる。

 しかし8回は二死後中河が四球で出塁するが吉原の牽制球にタッチアウト、9回は玉腰の中前打と代打長谷川重一の左前打で二死一二塁とするが最後は代打杉田屋守が一ゴロに倒れて巨人が辛くも逃げ切る。

 亀田忠は9回を完投して5安打11四球10三振、8失点で自責点は4であった。


 黒鷲は5安打の巨人を大きく上回る12安打を放ったが序盤の失点を挽回するには至らず、6連敗となって遂に勝率5割を割り込んだ。







 

2013年5月20日月曜日

15年 翼vs金鯱 11回戦


10月26日 (土) 鳴海

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 計
0 0 3 0 0 0 0 0 0  0   0   3 翼     45勝32敗10分 0.584 三富恒雄 浅岡三郎
0 0 0 0 0 0 2 1 0  0 1X  4 金鯱 25勝53敗7分 0.321 長尾貞利 中山正嘉

勝利投手 中山正嘉 13勝25敗
敗戦投手 浅岡三郎 10勝8敗

二塁打 (翼)三富 (金)上野、漆原

勝利打点 なし


中山正嘉、7回を無安打

 2013年4月17日付けブログ「15年 南海vs阪神 11回戦 」で「9月29日付け読売新聞は『セ軍新団名を募集』の見出しで『新体制を布いた日本野球聯盟の球団は純日本式野球実現のため球団名を改称せんとして東京セネタースでは広く一般から懸賞募集(当選者へ百円)を行って団名を改称することとし・・・』と伝えている。」とお伝えしてきたところですが、10月15日付け読売新聞「セ軍は『東京翼軍』」の見出しと共に「『東京セネタース軍』の改名募集は応募数13,399票中より『東京翼軍』と決定、17日から始まる本社主催大会から使用することとなった」と伝えています。読売新聞社主催第4回日本野球優勝大会からセネタースを翼としているのは既報のとおりです。


 翼としての公式戦初試合は3回、三富恒雄が左中間に二塁打、織辺由三の3ゴロをサード山川喜作がお手玉、三富は動けず無死一二塁、トップに返り横沢七郎の三前バントが内野安打となり無死満塁、高橋輝彦が押出し四球を選んで1点を先制、野口二郎の遊ゴロはショート濃人渉からのバックホームで三走織辺が本封されて一死満塁、続く小林茂太の遊ゴロを濃人が間に合わないホームに悪送球する間に三走横沢に続いて二走高橋もホームイン、3-0とする。記録は野選とエラーで小林には1打点が記録される。なお一死二三塁で山崎文一の遊直に二走小林が戻れずダブルプレー。

 金鯱は5回、先頭の横沢が四球で出塁、金鯱ベンチはここで先発の長尾貞利から中山正嘉にスイッチ、中山は高橋を遊ゴロ併殺、野口を三ゴロに抑える。

 中山はこの後翼打線を無安打に抑える。中山の好投が試合の流れを変えた。

 6回まで三富恒雄に2安打無得点に抑えられてきた金鯱は7回、一死後森田実が右前打で出塁、黒澤俊夫の投ゴロでランナーが入れ替わり、上野義秋が左中間にタイムリー二塁打を放って1-3、松元三彦は四球を選んで二死一二塁、漆原進が右翼線にタイムリーを放って2-3と追い上げる。
 金鯱は8回、一死後濃人が四球を選んで出塁、室脇正信が左前打を放って一死一二塁、森田実は中前に同点タイムリーを放って3-3と追い付く。翼ベンチはここで先発の三富から浅岡三郎にスイッチ、浅岡も好投を続けて試合は延長11回に進む。


 翼は11回表、一死後小林が四球で出塁、山崎文一も四球を選んで一死一二塁、ここで柳鶴震の打球は三塁ライナー、サード漆原は一塁に送球、「5-3-9-4」と転送されて一走山崎はタッチアウト、当初は併殺が記録されたようですが後に取り消されています。スコアカードの記載は「(5-3)[9-4]」と漆原からファースト上野への送球とライト室脇正信からセカンド五味芳夫への送球は別プレーと判定されたようです。ということは、漆原から上野への送球が逸れて上野が弾いたががライト室脇がカバーしてセカンド五味に送球して一走山崎をタッチアウトしたということでしょう。ライト室脇の好プレーだったようです。


 金鯱は11回裏、二死後漆原が左翼線に二塁打、中山に代わる代打古谷倉之助の二飛をセカンド高橋が痛恨の落球、漆原が二塁から還って金鯱がサヨナラ勝ち。
 

 中山正嘉は7イニングを投げて無安打5四球2三振無失点で13勝目をあげる。この日中山が先発していたらノーヒットノーランを記録したかもしれない。









         *中山正嘉は7イニングを投げて無安打の好リリーフを見せる。











      *サヨナラ勝ちした金鯱打線。












*延長11回表、柳鶴震の遊直で一走山崎文一がタッチアウトになった場面。(5-3)と[9-4]は別プレーと判定されて併殺が取り消されました。







        *「備考欄」には「併殺とするも取消す」と書かれています。












 

ドラフトへの道 2013 ②



 実際に見てしまうと矢張り松井がドラフト1位候補です。


 本日は朝6時に家を出て宇都宮清原球場で開催されている春の関東大会を観戦してきました。


 第一試合は選抜の覇者浦和学院、第二試合は地元の期待佐野日大、第三試合は桐光学園というゴールデンカードが組まれたこの日は4千台収容の駐車場を解放する厳戒態勢が敷かれました。


 浦和学院戦は一塁側ブルペン横で見ていましたので小島のキャッチボールが良く見えました。腕の振りがいいので切れの良いボールとなり打者は差し込まれます。体格、スピードからプロは難しいと思いますがまだ2年生ですからあと3回甲子園のチャンスが残っています。学生野球の王道を進むタイプのピッチャーではないでしょうか。


 第二試合は三塁側に移動しましたが奇跡的にベンチ上3列目に座ることができました。地元栃木の方々には申し訳あしませんが、強豪佐野日大を破った専大松戸はいよいよ甲子園初出場のチャンス到来という感じです。185センチの下手投げエース高橋は低目に球を集めて佐野日大の左打線を封じ込めました。専大松戸は当ブログとも因縁があります。イーグルスで活躍した畑福俊英は初期の専大松戸の監督を務めています。畑福は専修大学の出身ですからその関係だったのでしょう。千葉県高校野球の黄金時代でもベスト8の常連でした。持丸監督を招聘して、今では千葉県で実力No1と言っていいのではないでしょうか。



 第二試合の9回から三塁側ブルペン横は黒山の人だかりとなりました。神奈川予選の保土ヶ谷球場がパンクした松井人気は北関東でも同様でした。ブルペンに入っただけで拍手が沸き起こりました。


 本日の出来は70%というところでしょうか。周りで見ている高校野球通の間でも「スピードがない」、「スライダーのキレが悪い」という声が聞こえていました。それでもビシッと決まった時のストレートは高校生では打てないでしょう。ワンバウンドのスライダーを空振りするシーンも多く見られました。結局、延長12回を投げて18奪三振でした。二塁打を2本打たれましたがいずれも高目の失投でした。3点取られて評価も落ちるかもしれませんが、花咲徳栄も浦和学院に劣らぬ強豪です。


 身長が低いところを危惧する方もいらっしゃるとは思いますが、肩幅が広く、下半身ががっしりとした体型はピッチャーとしては理想的だと思います。当ブログののドラフト1位候補は桐光学園の松井、2位候補が東海大甲府の渡邉諒に変更させていただきます。







                *入場料は600円、パンフレットは400円でした。
















 

2013年5月18日土曜日

つり銭なし



 2013年5月17日、ロッテとの交流戦でヤクルトの畠山が9回裏2対5と3点ビハインドの場面で逆転サヨナラ満塁ホームランを放ちました。いわゆる「つり銭なし」というやつです。プロ野球史上初の“つり銭なし”は昭和24年4月12日、ホークスvsジャイアンツ1回戦で川上哲治が南海二番手の中原宏から放ったもので、畠山は通算15本目となります。


 これが「つり銭なしの“代打”逆転サヨナラ満塁本塁打」となると樋笠一夫、北川博敏、藤井康雄の3本となりますが何と言っても北川の「代打逆転サヨナラ満塁“優勝決定”本塁打」が有名です。第一号の樋笠一夫の記録を発見した山内以九士が“つり銭なし”の考案者であると言われています。


 「サヨナラ満塁ホームラン」の第一号は2011年5月6日に当ブログでもお伝えした昭和13年10月19日、セネタースvs名古屋3回戦で2対2の同点で迎えた延長10回裏、無死満塁で倉本信護が浅岡三郎から放ったものです。



 ヤクルト球団史上初の「サヨナラ満塁ホームラン」はサンケイアトムズ時代の1968年にジャクソンが放ったものです。筆者が野球を見始めた頃のサンケイではジャクソンとロバーツの助っ人コンビが印象的でした。ジャクソンは日本で急死しています。ロバーツは1973年シーズン途中で来日したペピトーンに押し出されるように近鉄に移籍していきましたが、6年半の在籍期間は助っ人としてはヤクルト球団史上ラミレス(現横浜DeNAベイスターズ)に次ぐものです。因みにペピトーンは“不良害人”として野球史に名前を残していますが、ヤンキース時代はゴールドグラブ賞を3回獲得している名選手であり、ヤクルト入団時は“史上最強の助っ人”として大変な評判でした。日本での初ヒットを放った巨人戦はテレビで観戦していましたが、打球の速さには驚かされました。





*昨日つり銭なしの逆転サヨナラ満塁ホームランを放った東京ヤクルトの畠山。現役選手のサインカードは浅村と畠山しか持っていません。荒波がもう少し安くなれば狙ってみたい。





     *昭和24年4月12日、川上哲治が逆転サヨナラ満塁ホームランを放った場面。






     *昭和13年10月19日、倉本信護がサヨナラ満塁ホームランを放った場面。






*久保田スラッガーのバットに1972年のオールスター出場メンバーのサインが入れられています。ロゴの真横がデーブ・ロバーツの直筆サイン。サンケイ、アトムズ、ヤクルトを通じて背番号は「5番」でした。久保田スラッガーのグローブは“湯もみ型付け”でお馴染です。








 

15年 ライオンvs阪急 12回戦


10月25日 (金) 西宮

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10  計
1 0 0 0 0 0 0 0 0  0   1 ライオン 22勝62敗4分 0.262 菊矢吉男
0 0 0 0 0 1 0 0 0 1X  2 阪急      51勝31敗5分 0.622 森弘太郎

勝利投手 森弘太郎 24勝11敗
敗戦投手 菊矢吉男   8勝24敗

二塁打 (ラ)鬼頭(兄) (急)黒田

勝利打点 上田藤夫 6


森弘太郎、無四球完投で24勝目

 ライオンは初回、一死後玉腰年男が右前打で出塁、鬼頭数雄が中越えに先制二塁打を放って1-0とする。

 菊矢吉男の前に5回まで2安打無得点に抑えられてきた阪急は6回、一死後フランク山田伝がショートに内野安打、新富卯三郎が中前打で続いて一死一二塁、浅野勝三郎の二ゴロは「6-4-3」と転送されて新富は二封されるがショート前田諭治からの送球をファースト灰山元章が落球する間に二走山田が快足を飛ばして三塁からホームを駆け抜け1-1の同点とする。

 剛球菊矢と巧投森弘太郎の投げ合いは9回で決着がつかず延長戦に突入。

 阪急は10回裏、先頭の新富の三ゴロをサード鬼頭政一が痛恨のエラー、浅野が送って一死二塁、井野川利春は四球で一死一二塁、これは敬遠でしょう。黒田健吾が右前打を放って一死満塁、上田藤夫が前進守備の一二塁間を破って阪急がサヨナラ勝ちを飾る。


 翌日の読売新聞によると「稀に見る好投を示した菊矢の豪快な速球と制球力豊かな森の一騎打ちは息詰まる投手戦を続け延長戦に縺れ込んだ揚句、阪急の地力に凱歌が挙った。」とのこと。
 森弘太郎は読売新聞に書かれているとおり7安打無四球5三振の完投で24勝目を上げる。終盤バテた菊矢吉男は9回3分の1を完投して10安打6四球1三振、失点は2であるが、上記のとおり自責点は0であった。ライオンは2失策であったがその二つが手痛い失点に結び付いたのである。



 鬼頭数雄は4打数3安打を記録して今季通算337打数109安打、3割2分3厘として3割7厘の川上哲治を一気に引き離した。10月9日現在では8糸差の二位であったが第4回日本野球優勝大会を挟んでここ3試合3安打、2安打、3安打と爆発している。





                *森弘太郎は無四球完投で24勝目をあげる。










     *上田藤夫のサヨナラ打で辛勝した阪急打線。










 

2013年5月17日金曜日

15年 南海vs名古屋 13回戦


10月25日 (金) 西宮

1 2 3 4 5 6 7 8  9  計
1 0 0 0 0 1 1 0  3   6 南海     23勝60敗6分 0.277 清水秀雄 川崎徳次 吉富欣也 劉瀬章
0 2 0 1 3 0 0 0 1X  7 名古屋 48勝34敗5分 0.585 西沢道夫 河村章 村松幸雄

勝利投手 村松幸雄 18勝11敗
敗戦投手 吉富欣也    0勝1敗

二塁打 (名)西沢
三塁打 (南)木村

勝利打点 中村三郎 6


中村三郎サヨナラ打

 南海は初回、国久松一が四球を選んで出塁、岡村俊昭が右前打、吉川義次の投前送りバントが野選を誘い無死満塁、岩本義行の二ゴロ併殺の間に三走国久が還って1点を先制する。この場合、岩本には打点は記録されません。

 名古屋は2回、一死後中村三郎が四球を選んで出塁、服部受弘がピッチャー強襲ヒット、岩本章は三振に倒れるが、西沢道夫が中前に同点タイムリーを放って1-1、トップに返り村瀬一三が四球を選んで二死満塁、芳賀直一が押出し四球を選んで2-1と逆転する。南海ベンチはここで先発の清水秀雄からプロ入り初登板となる川崎徳次にスイッチ、桝嘉一は投ゴロに倒れてスリーアウトチェンジ。

 名古屋は4回、先頭の岩本章が四球で出塁、西沢が左翼線にタイムリー二塁打を放って3-1とする。

 名古屋は5回、先頭の大沢清が四球で出塁、吉田猪佐喜の投ゴロの間に大沢は二進、中村の遊ゴロをショート加藤喜作が一塁に大暴投する間に二走大沢が還って4-1、カバーに走ったファースト清水からの返球も悪送球となって二塁に進んでいた打者走者の中村も一気にホームに還って5-1、服部は三ゴロに倒れるが岩本章が四球から二盗を決めて二死二塁、西沢の三ゴロをサード藤戸逸郎が一塁に悪送球する間に二走岩本章が還って6-1と突き放す。

 南海は6回、先頭の清水の左飛をレフト岩本章が落球、川崎は四球、岩出清が左前打を放って無死満塁、藤戸に代わる代打前田貞行が押出し四球を選んで2-6とする。

 南海は6回から川崎と同様プロ入り初登板となる左腕の吉富欣也をマウンドに送る。

 南海は7回、先頭の吉川が左翼線にヒット、岩本義行が死球を受けて無死一二塁、清水の中飛で二走吉川はタッチアップから三塁に進んで一死一三塁、パスボールの間に吉川が還って3-6と追い上げる。吉冨が四球を選んで一死一二塁、名古屋ベンチはここで西沢から左腕の河村章にスイッチ、重盗を試みるがキャッチャー服部は二塁に送球して吉冨がタッチアウト、木村、前田が連続四球で二死満塁とするが上田良夫は左飛に倒れてスリーアウトチェンジ。

 南海は9回、先頭の岩本義行が右前打、清水が中前打で続き、吉冨は三振に倒れて一死一二塁、ここで木村が中越えに三塁打を放って二者を迎え入れ5-6、名古屋は三番手として村松幸雄を投入、前田が右翼線に同点タイムリーを放って6-6と追い付く。

 名古屋は9回裏、先頭の桝が四球を選んで出塁、南海ベンチは好投を続けてきた吉冨から劉瀬章にスイッチ、しかし大沢が四球、吉田も四球を選んで無死満塁、最後は中村が右前にサヨナラタイムリーを放って名古屋が激戦を制す。


 昭和15年10月16日付け読売新聞は「南海に新人選手二人」の見出しで川崎徳次と吉富欣也の入団を伝えている。その二人がこの試合でプロ入り初登板となった。川崎は味方の守備の乱れに足を引っ張られて自責点は1点ながら4失点、しかし4四球を出したのも失点の原因であった。吉冨は敗戦投手になったものの3回3分の0を投げて無安打2四球2三振の好投を見せて南海が接戦に持ち込む要因となった。最終回も投げ続けていたらどうなっていたでしょうか。川崎は戦争を生き抜き、戦後も活躍を続けて通算188勝を上げる大投手となる。一方、吉冨はプロには2年間の在籍で通算0勝2敗で終わることとなる。




               *川崎徳次と吉富欣也がプロ入り初登板となった。













     *中村三郎がサヨナラタイムリーを放った名古屋打線。














     *名古屋の6本に対して12本のヒットを放った南海打線。














 

2013年5月16日木曜日

本塁打競争



 読売新聞社主催第4回日本野球優勝大会ではホームラン競争が行われました。昭和15年10月11日付け読売新聞は「この大会の興趣を一掃深めるものに初の試みとして“本塁打競争”がある。これは18日から3日間各日正午から挙行するもので各球団から大物打ちの強打者3人ずつを出す・・・各球団が飛ばした本塁打の数によって順位を決する・・・」と伝えています。


 「初の試み」というのが、日本野球優勝大会史上初であるのか、我が国プロ野球史上初の試みであるのかは定かではありませんが、後者の可能性もあります。これまでも試合前のアトラクションは行われてきましたが、ダイヤモンド一周競争、遠投競争、鶴亀競争などは見られましたがホームラン競争は確認しておりません。



 10月18日は阪急、南海、阪神が出場。山下実(阪急)が3本、清水秀雄(南海)が2本、井野川利春(阪急)が1本、吉川義次(南海)が1本、ジミー堀尾文人(阪神)が1本、あとは新富卯三郎(阪急)、岩本義行(南海)、本堂保次(阪神)、伊賀上良平(阪神)が0本で阪急が優勝しました。


 10月19日は名古屋、翼、金鯱が出場。服部受弘(名古屋)が1本、柳鶴震(翼)が1本、あとは松尾幸造(名古屋)、吉田猪佐喜(名古屋)、小島二男(翼)、佐藤武夫(翼)、森田実(金鯱)、柴田多摩男(金鯱)、黒澤俊夫(金鯱)が0本で名古屋と翼が優勝しました。チームで0本の金鯱は“失格”と記録されています。なお読売新聞には翼軍は「東京翼」と書かれています。


 10月20日は巨人、ライオン、黒鷲が出場。川上哲治(巨人)が3本、鬼頭数雄(ライオン)が2本、亀田忠(黒鷲)が1本、あとは中島治康(巨人)、中尾輝三(巨人)、広田修三(ライオン)、菊矢吉男(ライオン)、中河美芳(黒鷲)、サム高橋吉雄(黒鷲)が0本で巨人が優勝しました。


 決勝再試合となった10月21日も巨人とライオンで本塁打競争が行われました。不明(ライオンの選手ですが字が不鮮明で判読できず)が2本、広田修三が2本、鬼頭数雄が1本、川上哲治が1本、中島治康が1本、吉原正喜が0本で試合には敗れることとなるライオンが優勝しました。



 黒鷲から出場したサム高橋吉雄は昭和12年を最後に兵役に就いていましたが帰還して10月13日の南海戦で9回二死から代打に登場してプロ野球に復帰しました。なお、この試合の実況中継では筆者の勘違いにより高橋輝彦と書いておりました。お詫びして訂正させていただきます。本文は訂正済みです。高橋吉雄はこの後代打で快打を連発して終盤戦では四番を打つこととなります。今季は13試合に出場して36打数10安打、2割7分8厘のハイアベレージを記録することとなります。当ブログの古くからの読者であればご存知のとおり、戦前屈指のホームランバッターです。






 

2013年5月14日火曜日

読売新聞社主催第4回日本野球優勝大会



 リーグ戦は中休みに入り、昭和15年10月17日から「読売新聞社主催第4回日本野球優勝大会」というトーナメント大会が後楽園球場で開催されます。


 第一日は10時からの開会式に引き続き、1回戦のライオンvs南海戦は2A対1でライオンの勝ち。鬼頭数雄が4打数2安打、玉腰年男が2打数2安打でした。2回戦第一試合の阪急vs金鯱戦は2対0で金鯱、第二試合の阪神vs黒鷲戦は3対1で黒鷲が勝って波乱の幕開けとなった。金鯱は黒澤俊夫が4打数2安打、黒鷲は中河美芳が4打数2安打と主軸打者の活躍が目立った。

 18日の第二日、2回戦第一試合は巨人が2対0とリードしながら8回に名古屋が3点を入れて逆転、しかし9回裏、満塁のチャンスに吉原正喜が逆転サヨナラ2点タイムリーを放って巨人が打っ棄る。第二試合はライオンが翼を6対0で破った。鬼頭数雄が右翼スタンドに大ホームランを放っている。セネタースはこの試合から「翼」を名乗ることとなった。

 19日の準決勝第一試合はライオンが5対1で黒鷲を破った。鬼頭数雄が又もツーランホームランを放った。第二試合は巨人が金鯱を5対0で破った。吉原正喜が満塁走者一掃の三塁打を含む4打数2安打3打点と連日の活躍を見せた。

 20日の第一試合は三位決定戦、延長10回黒鷲が金鯱に5A対4でサヨナラ勝ちした。4対4の同点のまま迎えた10回裏、岡田福吉、岩垣二郎の早稲田コンビが連打、早稲田実業出身の太田健一が送って中河美芳がサヨナラ打を放った。中河は4打数3安打2打点の活躍を見せた。決勝戦のライオンvs巨人戦は3対3で引分け、明日に順延された。鬼頭数雄が4打数2安打、川上哲治も4打数2安打を記録している。

 21日の再試合は巨人が13安打の猛攻を見せて5対1でライオンを破って優勝、連日殊勲打を放った吉原正喜が最優秀選手賞を獲得し、川上哲治が打撃賞に輝いた。


 なお、早く負けた阪神、阪急、南海、名古屋、翼は休ませてもらえる訳ではなく、桐生と太田(共に群馬県)でオープン戦(帯同試合)を行っています。桐生は野球どころとして知られており、現在当ブログで活躍している皆川定之や柳鶴震は桐生中学の出身です。戦後も東映フライヤーズで活躍した「三塁打王」毒島章一、「元慶應義塾大学野球部監督」相場勤を輩出しています。小暮、阿久沢を擁して甲子園で活躍した桐生高校を覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。筆者が以前勤務していた会社で前橋支店に赴任していた頃は、国道50号線で前橋から桐生や太田に営業に行っていました。



 この時オープン戦が行われた桐生新川球場は、野球史に大きな役割を果たしています。終戦直後の昭和20年11月、日本プロ野球は東西対抗で復活の狼煙を上げました。11月23日、ステート・サイド・パーク(神宮球場、進駐軍に接収されていました)で第一戦が行われ、翌24日、桐生新川球場で第二戦が行われたのです。群馬県では中島飛行機があった太田や高崎、前橋は空襲の被害に遭いましたが桐生は空襲がありませんでした。


 この時の東西対抗で使用されたボールなどの用具は西宮球場に保管されていたものです。これをどうやって関東に運ぶかが喫緊の課題でした。終戦直後の東京-神戸間の列車は食料の買い出しですし詰め状態であり、殺気立っていた訳です。大和球士著「真説 日本野球史」によると、関西から関東に用具を運ぶ危険な役目を買って出たのは鈴木竜二と聯盟関西支部員・嘉治井安兵衛とのこと。「鈴木は座席に腰をおろしたが、嘉治井は、網棚にあげた命より大切な荷物をにらんで立ったまま。」午前3時、第三国人(原文のママ、現在では不適切な表現の可能性がありますがご了承ください)の親分らしき人物の荷物の総点検が行われた。・・・「コレハダレノダ」。鈴木は、恐怖のどん底にたたき落とされながらも、東西対抗戦決行の使命感に燃え、無謀にも思わず答えた。「オレノダ」。親分の太いステッキで顔面を一撃されるのを覚悟したが・・・親分は・・・次の席の点検に移動していった。・・・嘉治井が、もし荷物を奪われたら、親分の喉元を食い切りまじき、この世の人とも思われぬ凄まじい形相をしていたためであろうか・・・。


 鈴木竜二は著書「鈴木竜二回顧録」に「ぼくが感心し、心を打たれたのは嘉治井君が一晩中一睡もしないで、資材から目を離さず、盗難から守ってくれたことであった。」と書いている。日本プロ野球が復活の狼煙を上げることとなった昭和20年東西対抗の最初の殊勲賞は、当ブログは嘉治井安兵衛に授与します。



 リーグ戦は10月25日から再開されます。









*桐生高校から慶應に進んで神宮では3打席連続ホームランを放った「元慶應義塾大学野球部監督」相場勤の直筆サイン入りカード。




















 

2013年5月13日月曜日

15年 巨人vs阪急 12回戦


10月13日 (日) 西宮

1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
0 0 0 3 0 0 2 0 1  6 巨人 62勝25敗 0.713 澤村栄治 須田博
0 4 0 0 0 0 0 0 1  5 阪急 50勝31敗5分 0.617 石田光彦 森弘太郎

勝利投手 須田博     32勝11敗
敗戦投手 森弘太郎 23勝11敗

二塁打 (巨)中島治康 (急)山田、新富
三塁打 (巨)川上

勝利打点 白石敏男 6


互角の勝負

 両軍7安打7四球と互角。結果は6対5で巨人の勝ち。両軍の明暗を分けたのは何だったのでしょうか。


 巨人は初回、一死後水原茂が四球で出塁するが、川上哲治の二ゴロが「4-6-3」と渡ってダブルプレー。

 阪急は1回裏、一死後フランク山田伝がセンター右にヒットを放つが二盗に失敗、新富卯三郎が四球を選んで今度は二盗に成功、しかし四番レフト浅野勝三郎は三振に倒れる。

 巨人は2回、中島治康、白石敏男が連続四球、しかし吉原正喜の投ゴロで中島は三封、平山菊二の投ゴロが「1-5-3」(「1-6-3」ではありません)と渡って2イニング連続ダブルプレー。

 阪急は2回裏、一死後上田藤夫が四球で出塁、日比野武が左前打、下村豊が四球を選んで無死満塁、石田光彦は二飛に倒れて一死満塁、トップに返り中島喬が押出し四球を選んで1点を先制、巨人ベンチはここで先発の澤村栄治をあきらめて須田博をマウンドに送る。しかし須田はウォーミングアップ不足であったのか山田が右中間に走者一掃の二塁打を放って4-0と突き放す。

 巨人は4回、二死後白石敏男が右翼線にヒット、吉原、平山が連続四球で二死満塁、林清一の遊ゴロをショート下村がお手玉する間に三走白石が還って1-4、須田が右前に2点タイムリーを放って3-4と追い詰める。トップに返り呉波は四球、阪急ベンチはここで先発の石田から森弘太郎にスイッチ、水原は右飛に倒れてスリーアウトチェンジ。

 巨人は7回、先頭の水原が三塁に内野安打、川上は三振に倒れるが、中島治康が右越えに同点のタイムリー二塁打を放って4-4、白石が右前に逆転タイムリーを放って5-4とする。

 巨人は9回、先頭の水原の中飛をセンター山田がエラー、川上が中越えに三塁打を放って6-4とリードを広げる。

 阪急は9回裏、先頭の日比野武に代わる代打井野川利春が死球を受けて代走に田中幸男を起用、下村に代わる代打西村正夫の遊ゴロでランナーが入れ替わり西村は二盗に成功、更にキャッチャー吉原の悪送球が加わって一死三塁、森に代わる代打山下好一は三振に倒れるが、トップに返り中島喬がセンター右にタイムリーを放って5-6、しかし最後は山田が三振に倒れて巨人が接戦を制す。


 阪急2回の攻撃、初回に二盗に失敗したフランク山田伝は須田博の代わりばなを捕えて満塁走者一掃の二塁打を放った。しかし須田が奮起して第三打席から山田を3打席連続三振に切って取った。結局のところ、互角の接戦を制したのは須田博の意地だったのである。


 巨人先発の澤村栄治は2回に突然乱れたがこれはマラリアの影響でしょう。澤村が度々マラリアの発作に襲われていたことは各種文献で確認できる。昭和13年に澤村が1回目の出征で赴いたのは中国戦線であった。澤村がマラリアに罹患したのは昭和16年に二度目の出征となった南方戦線の事であった可能性もあるが、中国戦線でもマラリアに罹患することがあると言われている。当ブログの調査によると、「野球界」昭和15年8月号に掲載されている「澤村投手のこと」というコラムに「戦地で享けたマラリヤが彼の身心を頗る阻害していることは、親しく当人の語るところであって・・・」という記述が見られる。更に決定的なのは、「野球界」昭和15年9月号に澤村の手記が掲載されており「第一線の軍務から戻ってすぐ投手板に立つのは不可能なことですが、僕はその上マラリヤにやられたので弱っています。どうにも治りきりません。」と書かれている。本日の突然の乱れは中国戦線で罹患したマラリアの影響によるものであると考えられます。






               *澤村-須田のリレーは珍しい。須田博は32勝目をあげた。













      *接戦を制した巨人打線。
















     *中島喬が2打点、フランク山田伝が3打点を記録した阪急打線。