昭和21年のペナントレースも折り返し地点を過ぎて、各チーム60試合超を経過した。
そんな中、現段階における「死球王」が辻功であるという事実は、当ブログが今回公表するまで知る人はいない。
現段階における死球ランキングは、4個でトップが辻功、3個で2位タイは林清一、筒井敬三、白石敏男、坪内道則、菊矢吉男の5人となっている。
林清一は昭和11年から控え外野手として巨人に在籍し続けてきた猛者であり、ボールに当たることなど屁とも思っていない。筒井敬三は後に「三原ポカリ事件」で有名となるが、昭和21年の時点でもボールにポカリとやられていた。白石敏男は視力が弱かったことが原因でしょう。坪内道則はしぶといバッティングが身上で、ボールに当たることなど屁とも思っていない。菊矢吉男は投手としても打者としても「豪快」を信条としており、死球が多くても不思議ではない。但し、菊矢は7月15日のグ軍戦で別所に2個ぶつけられたことが要因である。
各チームの主力打者は「死球」が少ないことが明らかとなったが、この当時は主力打者には厳しい内角攻めが無かったとも言える。
辻功はここまで58試合に出場して201打数38安打、打率1割8分9厘、四死球9個のうち「四球」は5個で「死球」が4個である。海草中学時代も下位を打っていた選手で、打力が弱いのは間違いない。但し、NPBホームページによると164センチ64キロと捕手らしいがっちりとした体型で、ボールに向かっていくファイトの持ち主であった。
「辻功」は「辻勇夫」と表記されることが一般的であるが、昭和21年のスコアカードでは「辻功」の表記であり、「辻勇夫」と表記されるのは昭和22年からである。
では、海草中学時代の「表記」はどうであったのか。ご安心ください、ちゃんと調べてあります。「和歌山県高校野球史」では、写真のとおり「辻功」と表記されている。
海草中学の先輩・真田重蔵とはこれまで2試合で対戦して7打数1安打である。
*昭和17年「幻の甲子園」に出場した辻功。1回戦では二塁打を放っている。