2024年1月13日土曜日
22年 大阪vs東急 1回戦
2024年1月8日月曜日
昭和22年 金星vs近畿 2回戦
せい・しょうなごん
当ブログの読者の中にも大河ドラマ「光る君へ」 を楽しみにされている方は多いのではないでしょうか。
吉高由里子演じる「紫式部」が主人公ですが、ファーストサマーウイカ演じるライバル「清少納言」がどのように描かれるかにも注目が集まります。
さて、「清少納言」の呼び方ですが、どのように呼ぶべきなのでしょうか。
「Wikipedia」には「語呂の関係からか今日では『せいしょう・なごん』と発音されることもあるが、上述しているように『清』は父の姓から、『少納言』は役職名が由来であるため、本来は『せい・しょうなごん』と区切って発音するのが正しいと思われる。」と書かれています。
読者の方々は「せい・しょうなごん」が正しいのではないかという説をいつ頃お聞きになったでしょうか。
当ブログが「それ」を知ったのは50年以上前の中学時代。
2023年8月25日付けブログ「ぼくの好きな先生」でお伝えしたとおり、当ブログの「ぼくの好きな先生」は「古文」の教師でした。ある日の授業で「清少納言」についての講義があり、「清」が名で「少納言」は役職であるから「せい・しょうなごん」と呼ぶのが正しいと教えてくれたのです。
「せいしょう・なごん」が正しいと信じていたクラスの40人は唖然としていましたね。当ブログがこの教師を「ぼくの好きな先生」と認定するきっかけともなった「コペルニクス的転回」でした。当ブログは「これ」を教訓として、世の中に喧伝される「大本営発表」を盲信することなく、自らの目で「真実」を追及することにしたのです。
現在の「職業野球!実況中継」でも「それ」を踏襲していますのでよろしく(笑)。
2024年1月7日日曜日
昭和22年 阪急vs中日 3回戦
2024年1月5日金曜日
鈴木孝政とジャッキー・ロビンソン
本日のタイトルの意味を理解できた方は経済通ですね。
2024年大発会の日経平均終値は33,288.29円、2日目の本日は33,377.42円。
これならお分かりでしょう。そう、小数点以下の数字は大発会が鈴木孝政の背番号、2日目はメジャー全30球団で永久欠番となっているジャッキー・ロビンソンの背番号。
因みに、品川ビッグスターズでの当ブログの背番号は「42」(笑)。
当ブログが初めて鈴木孝政を知ったのはまだ全国的には無名だった成東高校時代。千葉県市川市国分に在住していた中学生の当ブログは読売新聞千葉版の高校野球の記事を全て把握しており、成東の鈴木孝政は銚子商業の根本よりも上であると確信していました。
「Wikipedia」にも出ていない当時のエピソード。練習が終わると鈴木孝政は実家までの山道を毎日走って帰っていました。産業用トラックが走る山道でのランニングだったことから、名将・松戸健監督の発案で発行色のジャージを着て走っていました。それに気付いたトラックの運ちゃん達から、「頑張れ!鈴木」の声が飛んだのです。強豪、銚子商業と習志野の壁が厚く、夏の千葉県予選では4年連続銚子商業に1点差で敗れ続けた成東ファンの期待を一身に背負っていた頃のエピソードです。
当ブログが初めてジャッキー・ロビンソンを知ったのは中学時代に読んだ読売新聞でジャッキー・ロビンソンの訃報を伝える記事。当時の記事で印象に残っているのは、今では「Wikipedia」でも消されていますが「息子が薬物中毒の末、交通事故で亡くなったように、晩年は不遇であった。」との記事。
ジャッキー・ロビンソンの訃報は1972年10月24日。その約1か月後、1972年11月21日のドラフト会議で鈴木孝政は中日に1位指名されました。全国的には無名だっと思っていた当ブログはしてやったり、と感じたのですが、流石はプロのスカウトで鈴木孝政は上位指名候補だったのでした。中日の指名順では当時高校No1と言われていたジャンボ仲根が残っていたのに近藤投手コーチの決断で鈴木孝政に行ったエピソードは「Wikipedia」にも掲載されているのでご確認ください。
2年目だったと思いますが、初めてプロでの姿を見た巨人戦のテレビ中継。王や長嶋を快速球とプロに入ってから覚えた鋭いフォークできりきり舞いさせたピッチングを見て、「当り前田のクラッカーじゃん」と快哉を叫んだのが懐かしい。当時の王のコメント「セ・リーグでスピードはNo1」が全てを物語っています。
品川ビッグスターズの背番号。メジャーから500億円でスカウトされたら付けられないので今、付けています(笑)。
2023年12月31日日曜日
かっとばし
野球殿堂博物館から贈られてきました。
長く維持会員をやっていると、たまにはいいこともあるもんですね(笑)。
当ブログが野球殿堂博物館に通い始めたのは50年以上前のこと。まだ後楽園球場の横に別棟で建っていた「野球体育博物館」でした。後楽園球場に東映vs 西鉄戦を観に通っていた頃、隣に不思議な建物があったので入ってみたら、そこが「野球殿堂」であることを知ってびっくり仰天したのです。薄暗い部屋に沢村栄治などのレリーフが飾ってあって、荘厳な雰囲気に圧倒されました。
維持会員になったのは10数年前のこと。年に20回以上行ってましたので、維持会員になった方が儲かるという不純な動機がきっかけでした。戦前編の「実況中継」でも活用していた当時の読売新聞の記事は、図書室でコピーさせてもらったものです。
戦前の読売新聞のスクラップは鈴木龍二の寄贈となっていますが、スクラップしていたのは河野安通志でした。河野の死後、遺族の困窮を知った鈴木龍二が買い取ったものを野球体育博物館に寄贈したのです。鈴木龍二は「カミソリ龍二」と呼ばれた有能な新聞記者でしたが野球に関しては素人でした。
野球殿堂博物館は戦前唯一の公式記録である「日本職業野球聯盟公報」全巻を所有していますが、複数の方から集めたものです。一方、当ブログが所有する「日本職業野球聯盟公報」全巻は鈴木惣太郎が所有していたものであり、一個人で集めた「全巻揃い」を所有しているのは当ブログだけとなります。
また、当ブログが故・千葉功氏から「俺は2冊持っているから君に一冊やるよ」と頂いた昭和21年の公式記録集は野球殿堂博物館も持っていません。
ということで、「かっとばし」くらいは頂いても罰は当たらないでしょう(笑)。
2023年12月10日日曜日
東京六大学準硬式野球連盟 創立75周年記念
昨日、 「東京六大学準硬式野球連盟 創立75周年記念 祝賀会」が開催されました。
各校のOBが一同に会する催しは初めてのことで、次回の開催は25年後の100周年になるようなので、最初で最後の機会ということで参加させていただきました。
同期と周辺の方達とは定期的に集まって飲み会をやっていますが、少し離れた年代だと卒業以来とか10年ぶりの再会となりました。現役時代はライバルだった他校の連中とも卒業以来の再会です。
ゲストスピーカーは甲子園優勝監督の森林さんでした。パワーポイントを駆使した講演は分かり易く、時折笑いも交える見事なもので皆な感心していましたね。近年は、塾高硬式野球部の準レギュラークラスの多くが大学では準硬に進む流れができており、来年4月からは甲子園優勝メンバーは神宮でレギュラーを狙う闘いに挑みますが、準レギュラークラスの多くは準硬に来ることとなるでしょう。
とは言え、現在の準硬も部員100人を超えておりレギュラー争いは熾烈を極めています。もちろん、私のように塾高軟式から大学では準硬に進んで硬式出身者とのレギュラー争いに打ち勝つ人間も多くいますので、硬式出身者諸君も覚悟しておいた方がいいですよ。
私も来年3月で定年退職後は日吉台のグラウンドに立つことになります。まだノックぐらいならできるんじゃないかな(笑)。