2023年5月24日水曜日

22年 金星vs東急 2回戦

4月20日 (日) 後楽園

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 4 0 0 0 0 0 0 0 4 金星 2勝1敗 内藤幸三 江田孝 
0 0 0 0 0 0 3 2 X 5 東急 1勝2敗 一言多十

勝利投手 一言多十 1勝0敗 
敗戦投手 内藤幸三 0勝1敗

二塁打 (金)小前、内藤 (東)鈴木、熊耳

勝利打点(東)白木義一郎 1


代打白木が逆転決勝打

 開幕週3日目、後楽園の第1試合は内藤幸三と一言多十の先発で午後1時丁度、島球審の右手が上がりプレイボール。

 東急は初回、先頭の鈴木清一がいきなり左中間に二塁打、しかし後続の飯島、大下が倒れて無得点。

 金星は2回表、先頭の西沢道夫がストレートの四球で出塁、清原初男が右前打で続いて無死一二塁、小前博文のライト線タイムリー二塁打で1点を先制、内藤は四球を選んで無死満塁、辻勇夫の三ゴロの間に三走清原が還って2-0、一死二三塁から坂本勲の三ゴロで三走小前がホームに突っ込み、サード横沢七郎からの本塁送球はタイミングはアウトであったがキャッチャー鈴木圭一郎が落球して3-0、なおも続く一死二三塁からトップに返り酒沢の二ゴロの間に三走内藤が還ってこの回4点を先制する。

 金星先発の内藤は初回先頭打者に二塁打を打たれた以降は四球で4人を歩かせるが5回まで無安打ピッチング。

 東急は6回裏、一死後大下弘が久々のヒットを右前に放つが、長持栄吉の一ゴロが「3-6-3」と渡ってダブルプレー。

 東急は7回裏、二死後プロ入り2年目の柴田繁雄が左前にプロ入り初ヒット、清水喜一郎は四球、トップに返り鈴木清一も四球を選んで二死満塁、横沢に代わる代打黒尾重明が左前にタイムリーを放ち1-4、更に飯島滋弥が中前に2点タイムリーを放ち3-4と1点差に迫る。

 東急は8回裏、一死後一言が死球を受けて出塁、鈴木圭一郎に代わる代打熊耳武彦がレフト線に二塁打を放ち一死二三塁、ここで柴田に代わる代打白木義一郎がセンター左に逆転の2点タイムリーを放ち試合をひっくり返す。

 一言多十は6安打3四球1三振の完投で今季初勝利を飾る。3回以降ヒットを打たれながらも四球を出さなかったことがチームの逆転勝利を引き寄せた。

 東急の勝利により無敗チームが無くなり、金星の敗北により全勝チームも消えた。

 昭和22年ペナントレースは混戦模様のスタートとなったのである。

2023年5月7日日曜日

22年 近畿vs大阪 1回戦

4月19日 (土) 甲子園

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
1 2 0 0 0 0 0 0 0 3 近畿 1勝1敗 丸山二三男 中谷信夫 
0 2 0 0 0 0 0 2 X 4 大阪 1勝1敗 梶岡忠義

勝利投手 梶岡忠義 1勝0敗 
敗戦投手 中谷信夫 0勝1敗

二塁打 (大)梶岡
三塁打 (近)丸山 (大)土井垣

勝利打点(大)土井垣武 1


梶岡忠義、デビュー登板を飾る

 開幕週2日目、甲子園の第2試合は丸山二三男と梶岡忠義の先発で午後3時8分、金政球審の右手が上がりプレイボール。

 近畿は初回、先頭の安井亀和が右前打で出塁、河西俊雄が確実に送りバントを決めて一死二塁、田川豊はツーストライクナッシングと追い込まれながら四球を選んで一死一二塁、昨年打点王の山本一人監督が左前にタイムリーを放ち1点を先制する。

 近畿は2回表、先頭の堀井数男がレフト線にヒット、丸山が左中間にタイムリー三塁打を放ち2-0、一死後朝井昇の遊ゴロをショート長谷川善三がエラー、三走丸山が還って3-0とする。朝井には打点が記録された。

 大阪は2回裏、一死後富樫淳が四球を選んで出塁、プロ入り初打席の梶岡がレフト線にタイムリー二塁打を放ち1-2、長谷川の三ゴロの間に梶岡は三進、トップに返り呉昌征の左前タイムリーで2-3と1点差に追い上げる。

 近畿は4回から丸山に代わって中谷信夫がプロ入り初登板。

 中谷は4回、5回と無安打ピッチング。6回に先頭の本堂保次の三ゴロをサード山本監督がエラーするが、落ち着いて本堂の変則走塁を刺して一死無走者、ここで土井垣武に右中間三塁打を打たれるが、富樫を二飛、梶岡を右飛に打ち取り無失点で切り抜ける。

 梶岡も2回まで3失点であったが3回以降は落ち着きを取り戻し近畿打線を無得点に抑え込む。

 大阪は8回裏、先頭の山口政信がこの日3つ目の四球を選んで出塁、藤村富美男監督は右前打、本堂が送りバントを決めて一死二三塁、土井垣が左中間に2点タイムリーを放ち4-3と逆転する。

 梶岡忠義は9回も味方エラーで走者を出すが併殺で切り抜け、7安打2四球3三振の完投でプロ入り初登板を飾る。名手長谷川善三が3つのエラーを犯したが、2つ目と3つ目は併殺で切り抜ける落ち着いた投球を見せた。ルーキーながら戦争からの帰還者らしい肝の据わった投球である。

 中谷信夫も土井垣に打たれた以外はダイナマイト打線を封じ込める好投であった。

 梶岡は専修大学で活躍してプロ入り候補であったが学徒出陣で応召して26歳でのプロ入りとなった。

 中谷も梶岡と同年代であり、立命館大学から学徒出陣の可能性が高い。

 明治神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会の映像が残っていることから学徒出陣は関東の大学だけだったような印象があるが、出陣学徒壮行会は全国的に行われており、占領下の台北、京城、新京等満州各地、上海でも行われた。大阪では昭和18年11月16日に中之島公園で行われたようだ。

 柚木進も梶岡、中谷と同年代であるが、柚木はシベリア抑留のため帰還が遅れており、昭和23年のデビューとなる。

野球週報2023 ⑱

4月30日(日) 休養日なので市川の道の駅でお買物。ちもとの和菓子「手児奈の里」は絶品です。真間小学校時代は毎日帰りには手児奈さんに寄り道していました。正式名称は手児奈霊神堂のようですが、地元ではそんな呼び方しませんよ。

5月1日(月) 秋葉原のバッティングセンターで110㌔、130㌔、スライダー。それからロッテ葛西ゴルフに移動して50球。アプローチ、ピッチング、8番、6番、ドライバー。ロッテ葛西に行ったのは15年ぶりでしょうか。

5月2日(火) 秋葉原のバッティングセンターで115㌔、120㌔、130㌔、カーブ、130㌔、スライダー。それからロッテ葛西ゴルフに移動して50球。サンド、アプローチ、9番、7番、ドライバー。

5月3日(水) 休養日。

5月4日(木) 秋葉原のバッティングセンターで110㌔、130㌔、カーブ、130㌔、スライダー。それからロッテ葛西ゴルフに移動して40球。ピッチング、8番、5番、ドライバー。それから市川の道の駅でお買物。本日の目玉商品はそら豆でした。

5月5日(金) 秋葉原のバッティングセンターで110㌔、130㌔、スライダー、120㌔。それからロッテ葛西ゴルフに移動して40球。ピッチング、9番、7番、ドライバー。

5月6日(土) 春季リーグ第6戦は対レジェンズ戦。3打数無安打でしたが4対1で勝ちました。直近16打数の成績は前半が8打数7安打で後半は8打数無安打。来週はどうなるでしょうか(笑)。 


2023年5月5日金曜日

22年 巨人s東急 1回戦

4月19日 (土) 後楽園

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 巨人 1勝1敗 小松原博喜 
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 東急 0勝2敗 黒尾重明

勝利投手 小松原博喜 1勝0敗 
敗戦投手 黒尾重明    0勝1敗

二塁打 (巨)千葉、川上

勝利打点(巨)川上哲治 1


小松原博喜、完封でプロ入り初勝利

 開幕週2日目、後楽園の第2試合は小松原博喜と黒尾重明の先発で午後3時5分、澤球審の右手が上がりプレイボール。

 巨人は初回、先頭の山川喜作が四球を選んで出塁、黒沢俊夫は捕邪飛、スコアカードにバント失敗の記載はないがここは送りバント失敗の可能性がある。千葉茂が左中間に二塁打を放って一死二三塁、川上哲治の二ゴロの間に三走山川が還って1点を先制する。

 巨人は2回以降、2つの併殺でチャンスを潰すなどして無得点が続く。

 4回までノーヒットの東急は5回裏、一死後黒尾が右前にチーム初ヒットを放つが続く大沢喜好が投ゴロ併殺に倒れて無得点。

 東急は7回裏、先頭の飯島滋弥がレフト線にヒット、大下弘の一ゴロでランナーが入れ替わり、長持栄吉の遊ゴロは「6-4-3」と渡ってダブルプレー。

 小松原博喜は9回一死から鈴木清一に中前打を許すが後続を抑え、3安打1四球4三振の完封で1勝目をあげる。昭和17年に大和でプロ野球人生をスタートした小松原は戦前は未勝利、この勝利がプロ初のものとなった。

 昭和13年第15回センバツ、横浜商業時代の小松原は初戦で前年優勝投手の浪華商業村松長太郎と対戦した。小松原は40歳で早逝することになるが、戦時中の飛行訓練中に事故死した村松とは対照的に戦後はプロ野球の世界で長く活躍することとなる。

 小松原はY校時代は外野手、ショート、投手をこなす運動能力に秀でたプレイヤーであった。プロでは投手からスタートするが、昭和22年に多田文久三が投手に専念することになり小松原は野手に転じてその才能を開花させる。多田は、昭和17年に小松原が1試合最多四球14個(当時、1994年に野茂が16個で更新)を記録した時の対戦投手でもあった。

 走攻守に優れた成績を残しており、昭和30年の国鉄時代にはリーグ最多二塁打を記録する。本塁打はパワーがあれば誰にでも打てるが、二塁打は打撃技術が高いバロメーターとして評価できる。昭和30年首位打者の川上は147安打で二塁打15本であるが、小松原は98安打で二塁打29本である。川上のパワーが落ちていた時代ではあるが、小松原の打撃技術の高さを物語っている。

野球週報2023 ⑰

4月23日(日) 秋葉原のバッティングセンターで110㌔、130㌔、スライダー、130㌔、130㌔、110㌔。

4月24日(月) 出勤日。

4月25日(火) 出勤日。

4月26日(水) 品川ビッグスターズの練習は雨天中止。有明ガーデンのサルスクリニック有明で2度目の循環器系検査。降圧剤効果で血圧は115-75まで下がってます。

4月27日(木) 出勤日。

4月28日(金) 出勤日。

4月29日(土) ジムでバイク10㎞、ラン2㎞、ウォーク1㎞。 


2023年4月29日土曜日

下手投げの元祖

 「下手投げの元祖」に関してKwai様から貴重な情報をいただきましたのでこちらから返信します。  

 日本野球における「下手投げの元祖」が青井鉞男であったことはKwai様から情報提供していただいた「論文」のとおりです。但し、青井を「下手投げの元祖」と認定するのは無理があるでしょう。 

 名著「野球」は中馬庚の著書ですが、そこに記述されている技術論は青井が書いたものであると考えられます。事実、「野球」には青井鉞男が増補した「増補版」が存在します。私が持っている「増補版」は明治35年10月1日発行の第八版で、初版の5年後に発行されたものです。

  この「増補版」で青井は8種類の変化球の投げ方について記述しています。その8種類とは

 ・Out Curoe :右より左に回転を与える外へのスライダーのことと思われる。 

・In Curoe:Out Curoeの逆回転を与えるインシュートのことと思われる。 

・Up:浮き上がる変化球のこと。 

・Drop:落ちる変化球。 

・Out Up:外に浮き上がる変化球。 

・In Up:内に食い込み浮き上がる変化球。 

・Out Drop:外に落ちる変化球。アウドロのこと。 

・In Drop:内に切れ込み落ちる変化球。インドロのこと。 

 そして、「Up」の投げ方は「腰辺よりOut Curoeの握り方を以て上に向かって投ずる」と記述しています。要するに、アンダーハンドからスライダーの握りで投ずれば浮き上がるような変化をすると説いている訳で、現在の下手投げ投手も投げている変化球と同じものです。

  青井の技術論は多くの後輩が参考にしたと考えられ、「論文」にも書かれているように守山恒太朗も「野球の友」で下手からの変化球を解説していますが、守山を「下手投げ投手」とする記述は見られません。

  菅瀬一馬が実戦で下手からの変化球を使って成功したことは事実だと思いますが、「論文」中にもあるように広瀬謙三が菅瀬一馬の投球について「オーバースローにアンダースローを交えて投げていた」と記述しているとおり、菅瀬は青井が説いた投球術の一環として下手からの変化球も使っていたのだと考えられます。

  結論としては、スピードボールを中心とした正統派の「下手投げの元祖」は、信頼できる著書の記述としては最も古い劉瀬章であると認定せざるを得ないのではないでしょうか。


22年 金星vs中日 1回戦

4月19日 (土) 後楽園

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
1 0 0 1 0 0 0 0 1 3 金星 2勝0敗 重松通雄 
0 0 1 0 0 0 0 0 0 1 中日 1勝1敗 藤本英雄

勝利投手 重松通雄 1勝0敗 
敗戦投手 藤本英雄 0勝1敗

二塁打 (中)杉浦
本塁打 (金)坪内道則 1号、西沢道夫 1号

勝利打点(金)西沢道夫 1

猛打賞 (金)清原初男 1


重松通雄、4年ぶりの勝利

 開幕週2日目、後楽園の第1試合は重松通雄と藤本英雄の先発で午後1時1分、国友球審の右手が上がりプレイボール。

 金星は初回、二死後坪内道則監督がレフトスタンドに先制ホームランを叩き込んで1-0とリードする。

 中日は3回裏、先頭の藤本が三遊間にヒットを放つと二盗に成功、藤原鉄之助の右前打で無死一三塁、トップに返り岩本章の三塁内野安打で三走藤本は動けず無死満塁、金山次郎の投ゴロで藤本は本封、一死満塁から古川清蔵の左犠飛で1-1の同点とする。

 金星は4回表、二死後西沢道夫がレフトスタンドに勝越しのホームランを叩き込んで2-1とリードする。

 金星は9回表、一死後坪内が四球を選んで出塁、西沢の左前打で一二塁、清原初男が中前にタイムリーを放ち3-1とリードを広げる。

 中日は最終回、金山の代打大沢清が四球を選ぶと代走に山本尚敏を起用、古川の三ゴロでランナーが入れ替わり、小鶴誠は右飛に倒れてツーアウト、杉浦清監督が四球を選んで二死一二塁、加藤正二に変わる代打清水秀雄が四球を選んで二死満塁、清水の代走に杉江文二を起用、杉江は4年ぶりの出場、しかし三村勲に代わる代打笠石徳五郎は三邪飛に倒れてゲームセット。

 重松通雄は6安打3四球1三振の完投で戦後初勝利を飾る。

 昭和11年のプロ野球初年度から活躍を続けてきた重松は2度の応召を挟んで4年ぶりのピッチングで完投勝利を飾った。

 重松通雄は「下手投げの元祖」とも言われている。昭和11年のプロ野球元年にアンダースローからの投球を見せていた重松がプロ野球における「下手投げの元祖」であることに異論はないが、当ブログの調べでは「下手投げの元祖」は劉瀬章である。

 劉瀬章のプロ入りは昭和13年なのでプロでは重松の後輩となるが、生年は重松の1916年に対して1911年生まれであることから、劉瀬章が学生野球時代から下手投げで投げていたことが確認できれば劉瀬章こそが「下手投げの元祖」ということになる。

 神奈川県高等学校六十年史「球音」(1978年7月1日発行、神奈川県高等学校野球聯盟)の48ページには昭和5年の第16回神奈川大会についての戦評が書かれており、優勝候補本命は本牧中学であり「アンダースロー、速球で京浜地区にその名の高い劉投手」との記述が認められる。

 すなわち、本牧中学時代の劉瀬章のアンダーハンドからの速球は神奈川球界に鳴り響いていたのであり、この記述が劉瀬章を「下手投げの元祖」とする根拠である。

 また、君島一郎著「日本野球創世記」には、「青井鉞男とその時代」の項で、大正7年に青井が一高グラウンドを訪れた際に、当時のエース内村祐之が青井に「アップカーブを投げてみろ」と言われてアンダースローで浮き上がるカーブを投げたと書かれており、大正時代にはアンダースローが確立されていたことが分かる。内村は普段は上手からの速球派であったことから「下手投げの元祖」ではない。

 したがって、日本球界に於ける「下手投げの元祖」は、確認できる限りにおいては劉瀬章であるものの、「不明」が正解であろう。