2012年3月31日土曜日

ガスハウスギャング ⑤ 最終回


 前回スタン・ミュージアルを紹介しましたが、イチローと共に来日したマリナーズの二番打者ダスティン・アクリーは父のジョン・アクリーからスタン・ミュージアルの打撃フォームを叩き込まれたそうです。

 1940年代以降、セントルイス・カージナルスには20年周期で黄金時代が到来します。

 60年代はボブ・ギブソンで64年と67年のワールドシリーズを制します。ボブ・ギブソンは64年のワールドシリーズでは3試合に登板して27回を投げて23安打8四球31三振で2勝1敗、防御率3.00を記録しています。67年は3試合に登板して27回を投げて14安打5四球26三振で3勝0敗、防御率1.00を記録しています。68年のワールドシリーズもデトロイトタイガースとの対戦はカージナルス絶対有利の前評判でしたが伏兵ミッキー・ロリッチの投打に渡る活躍の前に3勝4敗で敗れました。ギブソンは3試合に登板して27回を投げて18安打4四球35三振で2勝1敗、防御率1.67を記録しています。第一戦では最後の30勝投手デニー・マクレインに投げ勝って4対0で完封し17奪三振のワールドシリーズ新記録を樹立しています。
 ワールドシリーズでは9試合に登板して7勝2敗、二桁奪三振を5回記録しています。因みに9試合で81イニングスを投げていますが全試合完投ではなく、64年の第二戦の投球回数は8回で1イニングだけリリーフを仰いでおり、64年の第五戦が延長10回を完投、残りは全て9回を完投しています。
 1968年には単独チームで日米野球に来日して一塁側に倒れ込む豪快な大リーグ式投法を日本でも披露しました。この時の様子は「巨人の星」にも描かれています。アームストロング・オズマが来日したのもこの時の設定となっています。

 80年代はホワイティ・ハーゾク監督の「ホワイティ・ボール」が大リーグを席捲しました。82年にオジー・スミスをサンンディエゴ・パドレスから引き抜いて物語は始まります。オジーと共にトム・ハー、ウィリー・マギー、ロニー・スミスが走りまくりました。日本でも赤ヘルの機動力野球が席捲していた時代です。82年のワールドシリーズ第四戦では三走ウィリー・マギー、二走オジー・スミスの場面でトム・ハーが中犠飛を放ちオジー・スミスも二塁から生還して2点犠飛を記録しています。この年はロビン・ヨーント、ポール・モリターの二人の3,000本打者を擁する強打のミルウォーキー・ブルワーズを破ってワールドチャンピオンに輝きました。
 85年はルーキーのビンス・コールマンが110盗塁を記録して新人王、MVPのウィリー・マギーが56個、アンディ・バンスライクが34個、オジー・スミスが31個、トム・ハーが31個と5人が30盗塁以上を記録します。しかしワールドシリーズではジョージ・ブレット率いるこちらもスピードを売り物とするカンザスシティ・ロイヤルズに敗れます。コールマンを二軍から引き上げるためにロイヤルズに放出したロニー・スミスはこのワールドシリーズで27打数9安打4得点4打点2盗塁と大活躍して古巣を見返しました。因みに筆者はウィリー・マギーと生年月日が同一です。

 2000年代がアルバート・プホルスの時代であったことは説明不要でしょう。06年と11年の二度ワールドチャンピオンに輝きましたが、私としては最強チームと考えていた2004年のワールドシリーズでボストン・レッドソックスにスイープされたのが不思議でなりません。

 
 と言うことで、次の黄金時代は2020年代となります。プホルスが去って黄金時代は終了しました。さて、プホルスがカージナルスを出ていけば見捨てると宣言させていただいておりましたが、方針を変更して2012年の三冠王獲得を予言すると共に、「三冠への道」を復活させていただきます。

14年 ジャイアンツvsイーグルス 10回戦


9月30日 (土) 後楽園


1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
0 0 0 0 0 0 0 1 0  1 ジャイアンツ 55勝20敗2分 0.733 中尾輝三
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0 イーグルス   21勝54敗1分 0.280 望月潤一


勝利投手 中尾輝三 10勝4敗
敗戦投手 望月潤一   4勝21敗


二塁打 (イ)寺内

白石の三盗、悪送球を誘う


 ジャイアンツは初回、先頭の白石敏男が四球で出塁、一死後千葉茂の二ゴロをセカンド高須清が一塁に悪送球して一死一三塁、中島治康は二飛に倒れて二死一三塁、ここでダブルスチールを仕掛けるが「2-6-2」と渡って三走白石はタッチアウト。

 ジャイアンツは2回、先頭の川上哲治が内野安打で出塁するがアチラノ・リベラ(アデラーノ・リベラ)の三ゴロが「5-4-3」と渡ってダブルプレー。3回は三者凡退。4回も先頭の千葉が四球で出塁するが中島の遊ゴロは「6-4-3」と渡ってダブルプレー。

 翌日の読売新聞によるとイーグルスの6回の守備は「水原の安打と見ゆる難ゴロを山田が二塁上に掬って一塁好投に刺す美技を見せ、更に中島の猛直球を木下が跳躍一番逆手に掴んで喰い止める」とのことでショート山田潔、サード木下政文のファインプレーを伝えている。

 ジャイアンツは8回、先頭の白石が四球を選んで出塁、水原は中飛に倒れて千葉の遊ゴロの間に白石は二進して二死二塁、ここで白石が三盗を試みるとキャッチャー伏見五郎の送球が悪送球となって白石が生還、1-0と均衡が破れる。

 中尾輝三は4安打6四球1三振、3度目の完封で10勝目をあげる。中尾の完封は何れもイーグルス戦のものである。


 イーグルス先発の望月潤一は9回を投げ抜いて2安打10四球2三振1失点、自責点はゼロのピッチングであった。翌日の読売新聞は「捕手の暴投一個に稀に見る望月の好投も報いられず1対0に惜くも試合を失った・・・望月はインドロップを鮮やかに使い分けて徹頭徹尾巨人軍の打力を封じた。」と伝えている。


 ジャイアンツの唯一の得点は白石敏男の三盗がキャチャーの悪送球を誘ったものです。昭和48年センバツ、準決勝で江川の作新学院と対戦した広島商業は1対1で迎えた8回、二走金光と一走楠原がダブルスチールを敢行、キャッチャー小倉の悪送球を誘って江川を倒しました。決勝では永川の横浜高校に敗れて準優勝でしたが夏の甲子園では決勝で静岡高校を倒して優勝します。江川も金光も楠原も静岡高校の植松も法政大学に進んで黄金時代を築くこととなります。

 三塁に悪送球した函館中学出身の伏見五郎は久慈次郎に誘われて昭和15年、函館太洋倶楽部に移ります。伏見五郎はその後戦死することとなるので「鎮魂の碑」にその名が刻まれています。伏見五郎の父親が函館太洋倶楽部中興の祖として知られる伏見勇蔵です。伏見勇蔵は郁文館中学時代から野球部で活躍しています。郁文館中学グラウンドの隣に夏目漱石が住んでおり、「吾輩は猫である」には郁文館(作品中では「落雲館」)中学野球部員が漱石宅に飛び込んだボールを捕りに忍び込む場面が描かれています。この野球部員こそが伏見勇蔵であったと伝えられています。

 ベーブ・ルースと対戦した昭和9年の全日本には函館太洋倶楽部(函館オーシャン)から久慈次郎、永澤富士雄、浅倉長の3人が参加しています。久慈捕手は全日本のキャプテンを務めて澤村栄治の教育係となります。当然巨人の初代主将となる予定でしたがこの年の函館大火により家業の再建を優先させて巨人入りを辞退することとなります。久慈は昭和14年8月19日、全道樺太実業団野球大会における札幌倶楽部との試合で四球に歩くが次の打者に指示を与えるために引き返した際、キャッチャーが二塁走者に牽制球を投げ、その球が久慈のこめかみを直撃して二日後に亡くなります。現在でも都市対抗野球に「久慈賞」としてその名を残しています。




                 *中尾輝三は3度目の完封で10勝目をあげる。








     *昭和9年全日本時の久慈次郎のサイン。「Cap」久慈次郎と書かれています。






*昭和9年全日本時の永澤富士雄のサイン。右隣は山本栄一郎、左隣は伊原徳栄と杉田屋守。







                  *昭和9年全日本時の浅倉長のサイン。


14年 阪急vs南海 11回戦


9月30日 (土) 後楽園


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 1 0 0 0 0 1 0 1 3 阪急 51勝25敗2分 0.671 高橋敏
0 1 0 0 0 0 0 0 0 1 南海 32勝42敗4分 0.432 宮口美吉 政野岩夫

勝利投手 高橋敏     15勝6敗
敗戦投手 政野岩夫 14勝15敗


二塁打 (阪)山下好、伊東
本塁打 (南)吉川 2号

高橋敏7安打完投で15勝目


 阪急は2回、先頭の山下好一が左中間に二塁打、二死後伊東甚吉が左翼線に二塁打を放って1点を先制する。

 南海は2回、一死後吉川義次が左翼スタンドに同点の第2号ホームランを叩き込んで1-1とする。

 阪急は7回、先頭の伊東が四球を選んで出塁、南海ベンチはここで先発の宮口美吉から政野岩夫にスイッチ、日比野武の三ゴロで伊東は二封、高橋敏の遊ゴロで日比野が二封されて二死一塁、トップに返り西村正夫が三前にバントヒットを決めて二死一二塁、フランク山田伝の右飛をライト吉川が落球する間に二走高橋が生還して2-1と勝ち越す。

 阪急は9回、先頭の日比野が四球を選んで出塁、高橋の捕邪飛は送りバント失敗か、西村の左前打で一死一二塁、山田の左翼線ヒットで一死満塁、上田藤夫の一ゴロの間に日比野が還って3-1とする。ファーストの中村金次は二塁に送球して一走山田を二封している。当然バックホームの場面なので一二塁間の緩いゴロでホームは間に合わないと判断して二塁に投げたのでしょう。

 高橋敏は7安打1四球3三振の完投で15勝目をあげる。


 この日の阪急は拙走が目立った。3回、四球で出塁した山田は上田の左前打で二塁をオーバンーランしてレフト平井猪三郎からの返球に刺されてタッチアウト。4回は敵失に出た伊東が高橋とのエンドラン成功で三塁に走るがセンター国久松一からのバックサードにタッチアウト。翌日の読売新聞・鈴木惣太郎の論評によると「後方からの送球を恐れて頭蓋を双手にかかえて逃げながら弱々しく回り込んだので刺されたのは指弾すべき無気力の走塁である。」と手厳しい。当時はまだヘルメットはありません。6回の田中幸男の盗塁死もエンドラン失敗によるものであった。走塁ミスを繰り返した阪急は高橋敏の好投に救われた。





                 *高橋敏は7安打完封で15勝目をあげる。



凱旋 その5



 29日の第二戦はバルコニーシートからの観戦です。












 24日の阪神戦は10時の開門に行って打撃練習から見てきました。5本×5ですから私の大学時代と同じようなものです。ライトスタンド上段まで軽く運んでいました。第一班の打撃練習が終わるとケージの中に散らばっているボールを拾って籠の中に入れています。

 28日の公式戦開幕試合はエリア51で見てきました。試合そっちのけでライトの守備を追ったのは初めての経験です。イニング間のキャッチボールでは終わるとセンターにグラブで「サンキュー」とやっています。スコアボードで打者を一人ずつ確認しながら守備位置を変えています。ピッチャーの牽制球にまでバックアップに走っています。一球毎に構える姿などは高校球児を見ているようでした。

 29日の第二戦では右中間の飛球をジャンピングキャッチ。バルコニーシートからはサービスでジャンプしたように見えましたが、後からテレビで見ると捕球寸前にちらっとフェンスを確認していますのでジャンプでないと捕れなかったのでしょう。メジャーの広い球場であればランニングキャッチの打球だったと思います。


 公式戦が見れるチャンスは今回が最初で最後でしょう。次のWBC東京予選で見れる可能性はありますが。





                            最終打席。




                    第四打席は一ゴロでした。

14年 ジャイアンツvs金鯱 10回戦


9月27日 (水) 後楽園


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
1 0 1 1 0 0 2 0 0 5 ジャイアンツ 54勝20敗2分 0.730 スタルヒン
0 1 0 0 0 0 0 0 0 1 金鯱       28勝46敗3分 0.378 内藤幸三


勝利投手 スタルヒン 34勝12敗
敗戦投手 内藤幸三     0勝1敗


二塁打 (金)古谷
本塁打 (ジ)リベラ 3号

スタルヒン6安打完投で34勝目


 ジャイアンツは初回、白石敏男、水原茂の連続四球で無死一二塁のチャンスを迎える。千葉茂の右飛で白石が三進して一死一三塁、中島治康の右飛で白石が生還して1点を先制する。中島には犠飛が記録されておらず右飛で凡打が記録されている。一走水原がタッチアップから二塁を狙うがライト小林茂太からの二塁送球に刺されているので白石の生還はこの間に還ったものと判定されたようだ。

 金鯱は2回、一死後野村高義が右前打で出塁、野村が二盗を決めて山本次郎は中飛に倒れて二死二塁、瀬井清の右前タイムリーで1-1の同点とする。

 ジャイアンツは3回、先頭のスタルヒンが中前打で出塁、トップに返り白石の左前打をレフト野村が逸らす間に二者進塁して無死二三塁、水原の左犠飛で2-1と勝ち越す。

 ジャイアンツは4回、先頭のアチラノ・リベラ(アデラーノ・リベラ)が左翼ポール直撃の第3号を放って3-1とする。

 ジャイアンツは7回、一死後白石が四球から二盗に成功、更に内藤幸三のワイルドピッチで白石は三進、水原も四球を選んで一死一三塁、ここでダブルスチールを決めて4-1、千葉の右飛で水原がタッチアップから三塁に走り二死三塁、ここで内藤がこの回2個目のワイルドピッチを犯して5-1とする。

 スタルヒンは6安打2四球1死球6三振の完投で34勝目をあげる。


 内藤幸三は19日のジャイアンツ戦に続いて戦地から復帰後二度目の先発となった。前回はストライクが入らず先頭打者の四球後ノースリーとなったところで降板した。この日も立ち上がり連続四球を出したが5安打8四球1三振で完投した。昭和11年には澤村より速いと言われた剛速球も徐々に回復してきているようだ。

 翌日の読売新聞には「往年“巨人殺し”と謳われた内藤も病後の回復未だOと見えて往年の剛球も影を潜めていたのでスロー・カーブに頼ろうとしたが・・・」と書かれている。戦地から戻ってきたとは書けないようで戦争絡みは全て「病気」で誤魔化されています。当時の記事を読む時はこの点に注意が必要です。昭和14年も後半になってくると情報操作も激しくなってきているようです。イーグルスの中河美芳は依然としてグラウンドには姿は見えません。恐らく憲兵による尋問が続いているのではないでしょうか。復帰の際には「病気から回復」と書かれるのではないかと予想します。






                 *スタルヒンは6安打完投で34勝目をあげる。






     *「雑記」欄にはリベラのホームランが左翼ポールを直撃したと書かれています。

2012年3月30日金曜日

安打製造機



 イチローの前の「安打製造機」榎本喜八氏の訃報が伝えられています。イチローより早く史上最年少で1000本安打を達成した天才打者です。

 名球会に名を連ねながら一度も会合には出席せず脱会扱いになっています。尤もイチローも落合も名球会には興味はないのではないでしょうか。

 ダッグアウトで座禅を組む奇行で知られています。榎本を知る元プロ野球選手に「榎本を見かけたけどぶつぶつ呟きながら歩いていた。」と聞いたことがあります。


 私の榎本の最初の記憶は1970年のロッテオリオンズ優勝メンバーとしてとなります。この年のロッテ打線はロペス、アルトマン、山崎、池辺、有藤と5人が20本塁打以上を記録していますが、榎本も15本塁打を記録しています。中日を引退してロッテで復帰したため146打数しか出場していない江藤慎一も11本を打っている強力打線でした。日本シリーズでは堀内がアルトマンを全打席敬遠するという卑怯極まりない作戦をとった巨人が勝ちましたが、V9時代の巨人を破るとしたらこの年のロッテオリオンズしかなかったと思います。

 引退年となった1972年は大ファンだった西鉄ライオンズに来てくれました。榎本はこの年で引退し、西鉄ライオンズもこの年で消滅しました。イチローの凱旋で沸く最中に榎本の訃報が伝わるとは、何とも皮肉なものです。



      *西鉄ファンのサイン帳に残された西鉄時代の榎本のサイン。

2012年3月29日木曜日

14年 イーグルスvs名古屋 11回戦


9月27日 (水) 後楽園


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 イーグルス 21勝53敗1分 0.284 亀田忠
0 0 1 0 2 0 1 0 X 4 名古屋    30勝45敗3分 0.400 西沢道夫


勝利投手 西沢道夫 5勝8敗
敗戦投手 亀田忠  11勝22敗


二塁打 (イ)寺内
本塁打 (名)加藤 4号、5号

加藤正二、大爆発


 名古屋は3回、二死後加藤正二が左翼スタンドに第4号ホームランを放って1点を先制する。

 名古屋は5回、先頭の桝嘉一が四球で出塁、石田政良の投前送りバントをピッチャー亀田忠がファンブル、犠打エラーとなって無死一二塁、大沢清も四球を選んで無死満塁、加藤の遊ゴロ併殺の間に桝が還って2-0、加藤には打点は記録されない。三浦敏一のタイムリー三塁内野安打で3-0とする。

 名古屋は7回、一死後加藤が左翼スタンドに第5号ホームランを放って4-0とする。

 イーグルス打線は初回の寺内一隆の中前打、2回の菅利雄の中前打、8回の寺内の左翼線二塁打だけで初回は「5-4-3」、2回は「6-4-3」のダブルプレー。6回にも山田潔の四球と岩垣二郎の死球で一二塁のチャンスを迎えるが高須清の投ゴロで「1-4-3」のゲッツーと自らチャンスを潰していった。

 西沢道夫は3安打4四球5三振の完封で5勝目をあげる。カットボール(と思われる)で3つの併殺に打ち取ったのが効いた。

 このところ打撃好調の加藤正二が2本塁打を放つ活躍であった。


 翌日の読売新聞・鈴木惣太郎の論評は亀田忠を叱責している。「亀田の来朝当初の素晴らしきピッチングに比して現今の覚束なさは洵に淋しさに堪えない。」バッキー・ハリスの帰国の影響が大きい事は明らかであるが、低目に球が行かず高目に浮くピッチングが原因であると指摘している。「然るも幾多の投球武器を蔵してかくの如く不振であるべき筈はない、奮起を切望してやまない。」と結んでいる(一部現代用語に訂正しています)。



                *加藤正二が2本のホームランを放つ。






                *西沢道夫は3安打完封で5勝目をあげる。


大凱旋


 凱旋というレベルではなくなってきましたので本日のタイトルは「大凱旋」とさせていただきます。
 3本打ったところで「5の5」まで行くなと思いました。結果は5打数4安打でしたがアウトになったレフトライナーが一番いい当たりでしたので実質的には5打数5安打でした。


                *3本目のヒットの瞬間です。




                  本日はエリア51で見てきました。







               *エリア51のファンにご挨拶の場面。





                 *イチメーターも本物です。







               *お馴染のストレッチの場面






       *終盤は長打を警戒して深い守備位置に変更しています。





                 *一走と二走の場面







                    *試合終了


2012年3月27日火曜日

14年 阪急vsジャイアンツ 10回戦


9月26日 (火) 後楽園


1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
0 0 0 0 0 0 0 0 1  1  阪急             50勝25敗2分 0.667 森弘太郎
0 0 0 2 0 0 6 3 X 11 ジャイアンツ 53勝20敗2分 0.726 中尾輝三


勝利投手 中尾輝三 9勝4敗
敗戦投手 森弘太郎 6勝2敗


二塁打 (阪)上田、山下好 (ジ)吉原、中尾
三塁打 (ジ)中島
本塁打 (ジ)中島 6号

中島治康、5打数4安打4打点


 ジャイアンツは4回、先頭の中島治康が左前打で出塁、川上哲治は四球、アチラノ・リベラ(アデラーノ・リベラ)は遊飛に倒れて一死一二塁、平山菊二の三ゴロでリベラ二封され平山は二盗に成功して二死二三塁、ここで吉原正喜が左翼線に二塁打を放って2点を先制する。

 ジャイアンツは7回、先頭の白石敏男は遊飛に倒れ、水原茂が左飛に倒れて二死無走者、ここから猛攻が始まった。千葉茂が右前打を放って出塁、中島が左中間に三塁打を放って3-0、川上の右前タイムリーで4-0、呉波を代走に起用、リベラが左翼線にヒットを放ち呉が三塁に進んで二死一三塁、“人間機関車”呉の代走起用が効を奏す。平山の左前タイムリーで5-0、リベラが三塁に進み平山が二盗を決めて吉原四球で二死満塁、中尾輝三が左中間に走者一掃の二塁打を放って8-0とする。

 ジャイアンツは8回、先頭の水原が四球を選んで出塁、千葉の右前打で無死一二塁、中島が左翼スタンドに第6号スリーランホームランを叩き込んで11-0とする。

 阪急は9回、二死後フランク山田伝が四球を選んで出塁、中尾のワイルドピッチで二死二塁、山下好一が右翼線に二塁打を放って1点を返すが焼け石に水であった。


 中島治康が5打数4安打3得点4打点、三塁打1本、本塁打1本の準サイクルであった。中島は秋季シリーズ通算44打数17安打、打率3割8分6厘で秋季シリーズベストテンの第三位。先制タイムリーを放った吉原正喜が3打数2安打1得点2打点、秋季シリーズ通算38打数15安打、打率3割9分5厘で皆川定之の3割8分9厘を抜いて首位打者に返り咲いた。今季通算で首位打者となる川上哲治は秋季シリーズのこの時点ではベストテンに名前は見えない。川上と吉原では歴史的にはバッティングでは川上が遥かに上の評価を得ているが、一断面を切り取ってみると吉原も頑張っていることが分かります。

 中尾輝三は4安打2四球3三振1失点、自責点ゼロの完投で9勝目をあげる。見違えるようなピッチングであった。ジャイアンツは今季阪急戦は10戦全勝、昨年から通算14連勝。これまでの勝利投手は全てスタルヒンであったが本日は中尾輝三であった。






*中尾輝三は4安打完投で9勝目をあげる。




2012年3月26日月曜日

凱旋 その4



 阪神戦の第四打席ではレフト線に二塁打を放った川崎を二塁に置いての打席となりました

 














14年 セネタースvs金鯱 10回戦


9月26日 (火) 後楽園


1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11  計
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0   0   0 セネタース 41勝29敗6分 0.586 苅田久徳 野口二郎
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0   0   0 金鯱          28勝45敗3分 0.384 古谷倉之助


二塁打 (セ)柳


西部戦線異状なし


 翌日の読売新聞はこの試合を「押せども突けども動かばこそ西部戦線に於けるマジノ鉄塞に対するジークフリード要塞の如く蟻の這い出る隙もなき見事の守備に両者秘術を尽した大熱戦」と伝えている。「マジノ線に対するジークフリード線」としているところがドイツに傾注している世相を表しています。新聞による世論誘導であったのかもしれません。日独伊三国同盟が締結されるのは1年後のことです。

 セネタースの先発投手は苅田久徳監督で二番に入っている。鈴木惣太郎のインタビュー記事によると「野口を使い過ぎるなという投書が頻々(「しくしく」或は「ひんぴん」)と来るし、事実野口には少しでも余分に休養させなければならないので今日は僕が先発して大いに頑張る・・・自信ですか?勿論あります。」とのこと。苅田は6回3分の0を投げて3安打2四球1三振無失点。7回に先頭の野村高義に四球を与え小林茂太の一塁線送りバントが内野安打となって無死一二塁としたところでセカンドに回り、ファーストの野口二郎がマウンドに上った。野口は残る5イニングを3安打無四球4三振で無失点に抑え切った。

 一方、金鯱先発の古谷倉之助は11回を完投して4安打4四球4三振無失点。久々に「のらりくらり投法」の真髄を見せた。「元祖・のらりくらり投法」の下柳剛は2012年も楽天で活躍しそうな勢いです。下柳の投球は今でこそ「のらりくらり」としていますがダイエー時代は力のある球を投げていました。筆者が大阪に住んでいたのは1991年~93年です。当時のサンテレビは阪神戦と共にダイエー戦の中継も多く、とにかく下柳は「毎日投げていた」という印象しか残っていません。記録を振り返ってみると93年のことのようです。古谷倉之助も八王子実業団で投げていた若かりし頃は速球派だったのではないでしょうか。翌日の読売新聞は「一方に単身11回を完投した古谷の好投も十分に賞さねばならない。彼の鋭きドロップに遭ってセ軍は完全に打力を封じられ殆ど得点機さえも握れなかったのである。」と伝えている。


 マジノ線が構築されるきっかけとなった第一次世界大戦における膠着した塹壕戦を描いた傑作「西部戦線異状なし」は主人公が蝶に手を伸ばしたところを狙撃されるラストシーンに「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」の司令部報告が流されて戦争の虚しさを伝えている。大義の前では一兵卒の死など問題とはされない訳です。本日の試合は「0対0の引分け、報告すべき件なし」としか記録には残りませんが、苅田久徳、野口二郎、古谷倉之助が見せた投球こそが日本野球の礎となり今日に続いている訳です。それを伝えるのが当ブログの意義でしょう。




          *0対0の投げ合いとなった苅田、野口のリレーvs古谷倉之助。






 

2012年3月25日日曜日

凱旋 その3



 始球式の模様です。




 続いて第三打席。











 一塁アウトの場面。




 その4に続く・・・。

14年 阪急vsセネタース 10回戦


9月25日 (月) 後楽園


1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11  計
0 1 1 0 0 0 0 0 0  0   0   2 阪急          50勝24敗2分 0.676 石田光彦 重松通雄
0 0 0 0 0 0 2 0 0  0   0   2 セネタース 41勝29敗5分 0.586 野口二郎 浅岡三郎


三塁打 (セ)尾茂田


延長11回引き分く


 阪急は2回、先頭の山下好一が四球を選んで出塁、一死後石井武夫が右前打、日比野武の三ゴロで石井が二封されて一死一三塁、伊東甚吉の中前タイムリーで1点を先制する。

 阪急は3回、一死後二番ライトに起用された浅野勝三郎が右翼線にヒット、上田藤夫が四球を選んで一死一二塁、山下好一の中前タイムリーで2-0とする。

 セネタースは6回まで4安打5四球ながら無得点、残塁は9個を記録している。

 セネタースは7回、二死後野口二郎が左前打で出塁、柳鶴震がピッチャー強襲ヒット、浅岡三郎の二ゴロをセカンド伊東がエラーする間に二走野口が一気にホームに還り1-2、佐藤武夫が四球を選んで二死満塁、家村相太郎に代わる代打小島二男のカウントがワンボールのところで阪急・山下実監督は先発の石田光彦から下手投げの重松通雄にスイッチする。しかし重松がボールを三つ続けて押し出し、2-2の同点とする。

 セネタースは先発の野口二郎が6回で降板してファーストに回り7回から浅岡がファーストからマウンドに上るが、8回に四球とヒットで無死一二塁としたところで再び野口がマウンドに上がり、山下好一を投ゴロ、黒田健吾を二ゴロ併殺に打ち取る。

 この後は重松通雄、野口二郎による投げ合いで両軍無得点、遂に延長11回引き分く。


 翌日の読売新聞によると「洵に虚々実々寸分の隙もない熱戦好試合であった。」とのことである。石田光彦のピッチングフォームについて「石田得意の奇怪なる投球動作」とも伝えている。これは「十字架投法」よりも野茂英雄ばりのトルネード投法を言っているのかもしれない。





*野口二郎は一旦浅岡三郎にマウンドを譲ってから再登板したが当時のスコアブックには合算して記録されているので注意が必要です。






凱旋 その2



 いよいよ試合が始まりました。





 今日は親善試合ということでいつもより長くポーズをとってくれたようです。







 第一打席でヒットを放ち一塁に出ました。

 私がイチローを最も高く評価する点は走塁にあります。生イチローを見たのは第1回WBC東京予選の中国戦と台湾戦及び本日だけです。ベースランニングは矢張りグラウンドで見ないと分かりません。WBCの台湾戦で見た二塁ランナーからタイムリーで生還した時のベースランニングが非常に印象に残っています。






 
 第二打席です。











 その3に続く・・・。