2011年12月6日火曜日

14年 ライオンvs南海 5回戦


7月13日 (木) 後楽園


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
1 0 0 0 1 1 0 0 0 3 ライオン 17勝22敗4分 0.436 菊矢吉男
0 0 0 0 0 3 0 2 X 5 南海   17勝23敗2分 0.425 劉瀬章


勝利投手 劉瀬章     4勝4敗
敗戦投手 菊矢吉男 10勝10敗


二塁打 (ラ)鬼頭
本塁打 (ラ)玉腰 1号


中村金次、同点打と決勝打


 ライオンは初回、一死後玉腰年男が中前打で出塁、水谷則一が三遊間を破ると玉腰は一気に三塁に進む。エンドランが掛かっていたのであろう。ここで鬼頭数雄が中犠飛を打ち上げて1点を先制する。

 ライオンは5回、二死後玉腰が右翼スタンドにホームランを叩き込んで2-0とする。昭和15年限りで兵役に就き、戦後は朝日新聞の野球記者に転ずることとなる玉腰にとって、プロ野球在籍中唯一の本塁打である。

 ライオンは6回、先頭の鬼頭が左中間に二塁打、岡本利之の投ゴロで鬼頭が飛び出し二三塁間に挟まれて「1-5-6」と渡ってタッチアウト、ショートの小林悟楼は打者走者の岡本も刺そうと一塁に送球するがこれが悪送球となる間に岡本は二塁に進む。西端利郎が左前打を放って一死一三塁、山本尚敏の三塁内野安打で岡本が生還して3-0とする。なお一死一二塁で井筒研一の投ゴロは「1-5-3」と転送されて二走西端は三封されるがサード鶴岡一人からの送球をファースト中村金次がエラー、一走山本はこの隙に二塁から三塁に進み更にホームを狙うが白球(一試合6個の使用制限があるので薄汚れていた可能性が高いが)を拾い直した中村金次からのバックホームにタッチアウトとなってスリーアウトチェンジ。

 南海は6回裏、先頭の山尾年加寿が四球で出塁、トップに返り平井猪三郎が左前打、小林の投ゴロで二走山尾は三封、鶴岡四球で一死満塁、岡村俊昭の左犠飛で1-3、国久松一の遊ゴロをショート山本が失して一死満塁、中村金次が中前に同点タイムリーを放って3-3と追い付く。

 南海は8回、鶴岡、岡村が連続四球、国久のショート内野安打で無死満塁、中村金次が中前に決勝タイムリーを放って4-3と勝ち越し、一死後劉瀬章がスクイズを決めて5-3と突き放す。

 劉瀬章は後半よく粘り8安打1四球1三振の完投で4勝目をあげる。菊矢吉男は前半は快調に飛ばしていたが後半は四球から崩れて7安打7四球1三振で8回を完投するが10敗目を喫す。


 翌日の読売新聞誌上で鈴木惣太郎は6回の南海の攻撃での出来事を詳細に伝えている。この試合の論評の大半をこの出来事に費やしているのである。すなわち、「6回南海の山尾は先ず四球を選び平井が左翼快打に続いた後・・・山尾は三封され・・・菊矢が鶴岡を四球に歩かせ・・一死満塁・・・岡村は左翼に火の出るような強打・・・待ち構えた(レフト)鬼頭は跳躍して好捕し・・・ノーバウンドの本塁送球を行ったが送球は僅かに外れて捕手岡本は定位置よりおおよそ六尺三塁に向かって斜めに外側に走り出てこれを捕えなければならなかった。・・・三塁走者平井は岡本の前を走り抜けようとしたので岡本は球を握った腕と身体を存分に伸ばして“タッチ”を試みたが数寸の差で及ばず惜しくも走者を逸して最初の南海得点を許した。ここが非常に重大な点である。この時岡本にして張切った勇気があり身を挺して走者に飛びつけば優に平井を刺し三死を奪って次の・・2点も未然に防ぎ得たものである。岡本が最善最後の必須努力を怠ったため・・ラ軍が稼いだ3点を一挙にして失うこととなり・・・」として岡本を叱責している。


 この岡本利之こそ、1960年のセンバツで山陰高校野球史上唯一の甲子園決勝進出を果たして準優勝した米子東高校を率いた監督である。岡本監督の米子東はその後も甲子園ベスト4、ベスト8に進出し、岡本利之は高校野球史に残る名監督として名高い。岡本は鈴木惣太郎の叱責を読んでいたであろう。恐らくこの時の叱責を胸に刻んで後進の指導を行い、高校野球史にその名を残すこととなったのではないだろうか。



 

0 件のコメント:

コメントを投稿