少し遅くなりましたが、一色俊作・元松山商業監督の訃報が伝えられております。心よりご冥福をお祈りいたします。
昭和44年夏の甲子園決勝、松山商業vs三沢高校の熱戦を見たのは小学校5年生の時です。春休みと夏休みは神戸の祖母宅に行くのが恒例でした。そこから岸和田の父方の祖母、姫路の親戚宅などを訪ね歩く訳です。この年は姫路から北条の親戚宅にまで足を伸ばしました。松山商業vs三沢高校の延長18回引分けと翌日の再試合は、北条の農家でテレビの前に一人でちょこんと座って見ていました。
姫路の親戚宅は姫路城の近くの町中にあったのでよく行っていましたが、北条まで行ったのはこの時が初めてで、その後もありませんので1回だけということになります。生涯に一度だけ訪れた土地で、歴史に残る名勝負を二日間に亘って見ていました。三沢高校・太田投手の剛球とは対照的な松山商業・井上投手の今にも泣き出しそうな悲壮感漂うピッチングが印象的でした。
0対0のまま迎えた延長15回表松山商業の攻撃、二死二塁で打席に立った井上は太田のアウトコース一杯に決まるカーブに手が出ず追いこまれ、最後は高目のストレートに空振り三振します。15回裏のドラマは数々のメディアで伝えられていますが、当ブログは井上がピンチを迎える直前、チャンスに打席が回ってきて三振に倒れている事実を見逃しません。精神的動揺が15回裏のピンチにつながったのではないでしょうか。
15回裏三沢高校の攻撃、先頭の五番菊池は追いこまれながら左前打で出塁、続く高田の送りバントは三前の小飛球となりましたが打球に回転が掛かっていたようで不規則バウンドとなりサード谷岡が弾いて無死一二塁、谷川の三塁線送りバントをピッチャー井上が捌いて一死二三塁、ここでNHKのカメラはベンチの一色監督が帽子を脱ぐシーンを捉えます。これは敬遠策の指示だった可能性があります。井上は滝上を歩かせて満塁策をとり一死満塁、九番立花(タチハナ)の打席でドラマが起ります。
初球は外にボール、二球目は外角低めに大きく外れてツーボール、三球目は高目に抜けてスリーボールナッシング、井上はボールをグラブに叩きつけて気合を入れ直し四球目はストライクでワンスリー(現代風に言うとスリーボールワンストライク)となりました。五球目の投球をNHKの中継は「ボ、あ、ストライーク」と伝えています。声からすると羽佐間アナのように聞こえますが定かではありません。画像で確認するとストライクで間違いないと思いますが、郷司主審が井上に同情してストライクとコールしたなど誤審ではないかとの指摘がありました。因みに後年、井上明氏は郷司裕氏に「低目のストライクでした。」と伝えたとのことです。
ツースリーからの六球目にバットを出した立花の打球はピッチャー井上を襲います。飛び付いた井上の逆シングルのグラブを弾いた打球はバックアップのショート樋野の前に転がりバックホーム、満塁ですからフォースプレーですがキャッチャー大森は三走菊池をタッチアウトにし、NHKのアナも「タッチアウトです」と絶叫しています。トップに返り井上が最も警戒していた強打の八重沢を中飛に打ち取ります。この打席で「4:30」のテロップが画像に流れました。試合開始から3時間31分が経過していました。ベンチに戻る井上を笑顔で迎えた一色監督、解説の山本英一郎は「監督、興奮していますよ」と語っています。
翌日の再試合で初回にツーランホームランを放った樋野和寿は井上と共に明治大学に進み、4年の秋には優勝してショートでベストナインを獲得しています。同学年に慶應大学の山下大輔がおり、山下は2年秋~4年春まで四期連続ショートでベストナインを獲っていますので樋野がライバル山下の五期連続を阻んだことになります。高校と大学でドラフトされた樋野はプロには進まず、日本鋼管では昭和51年の都市対抗に優勝して橋戸賞に輝いています。樋野は準々決勝の日鉱佐賀関戦で萩野からツーランホームランを放ちました。萩野は山下大輔と共に慶大三連覇の立役者となった土佐高校出身の左腕剛球投手です。松下勝美(清水東高-慶大)、鍛治舎巧(岐阜商業-早大)、前川善裕(東葛飾高-早大)など、プロに行っても主力打者になっていたと考えられる強打者は社会人野球に進んでいます。アマチュアリズムが燦然と輝いていた時代でした。
井上は社会人野球を経て朝日新聞に入社し、スポーツ記者として活躍を続けています。「井上明」の署名記事は多くの人が目にしたことがあると思います。
注:当ブログではプレイヤーについては高校野球、大学野球、社会人野球、プロ野球の区別をすることなく敬称略とさせていただいております。記者・井上明も同列とさせていただいておりますのでご了承ください。