レオ・ドローチャー自伝(ベースボール・マガジン社、1977年10月30日第1版第1刷発行)の第五章のタイトルは「ギャスハウス・ギャングたち」です。ドローチャーはニューヨーク・ヤンキース時代にはマーダラーズ・ロウ(殺人打線)に名を連ねていましたが打撃力は弱くベーブ・ルースに「オール・アメリカン・アウト」と名付けられました。1933年からガスハウスギャングに名を連ねることとなりました。
ここに「ガスハウス・ギャング」と呼ばれる由来が書かれています。「さて、“ギャスハウス・ギャング”の名前の由来だが・・・ニューヨークに乗りこんだとき、われわれは遠征中、雨で湿ったグラウンドで何試合かを戦ってきたので、ユニフォームは汚れているといったような生易しいものではなかった。・・・特にひどかったのは“飛び込みおっとせい”と呼ばれていたペパー・マーチンとフランキー・フリッシュのふたりだった。・・・ヘッドスライディングの発明者であるマーチンが三塁に飛び込むと、彼のヘッドスライディングを誰よりも早くまねたフリッシュも二塁ベースへ頭から飛び込むのだった。・・・『ワールド・テレグラム」紙に私はウィラード・マリンの書いた漫画がのっているのを見た。・・・町の外れに、二つの大きなガスタンクが立っている。そして人相のよくない野球選手が数名、バットではなしに棍棒を肩に町中へと進んでいる。題はこうだった。“ギャスハウス・ギャングの殴り込み!”」
1934年のワールドシリーズを制したセントルイス・カージナルスが「ガスハウスギャング」時代の全盛期であったことはよく知られています。この年のワールドシリーズではデトロイト・タイガースを4勝3敗で破っています。タイガースはエースにスクールボーイ・ロウを擁しキャッチャーは史上最高の捕手と言われるミッキー・カクレーン、チャーリー・ゲーリンジャーが二塁を守り、グース・ゴスリンとこの年最初のMVPに輝いた若き日のハンク・グリーンバーグが名を連ねています。因みに、昭和9(1934)年に草薙で澤村栄治が快投を見せて「スクールボーイ」と呼ばれた所以は、この年センセーションルなデビューを飾ったスクールボーイ・ロウに由来するものです。また、アトランタ・ブレーブス等で213勝154セーブを記録したジョン・スモルツはチャーリー・ゲーリンジャーの甥に当たります。
カージナルスはディジー、ポールのディーン兄弟がWエース、フランキー・フリッシュがプレイング・マネージャーを務め、ペッパー・マーチンが三塁にコンバートされており、ジョー・メドウィクが名を連ねています。ピッチングスタッフには1920年代に七年連続奪三振王に輝いた43歳のダジー・バンスも名を連ねています。苅田久徳は自伝「天才内野手の誕生」にプロで二塁手を目指した理由として「学生時代や巨人の第一回渡米など、海外遠征時に見た、とくに大リーガーの動きが、刺激になっていた。その人の名は、フランキー・フリッシュという。昭和六年の大リーグ選抜の一員としても来日した。」と書いています。また、1934年のワールドシリーズでジョー・メドウィクが果敢な走塁を見せタイガースの三塁手・マーヴ・オーウェン(Marv Owen)を薙倒して、デトロイト・ファンが怒り狂ってゴミをグラウンドに投げ入れて収拾がつかなくなりメドウィックが退場する場面をユーチューブで見ることができます。一部編集されているようですが(メドウィックの走塁シーンは後撮りでしょう。当時のニュース映像ではよくあったようです。デトロイト・ファンが怒り狂っているシーンは当時の映像のようです。)。
この後、1937年のオールスターゲームでディジー・ディーンがアール・アベリルの打球を足の親指に受けて骨折してからスタン・ミュージアルの登場まで暫しの低迷期に入ることとなります。アール・アベリルは昭和9年にベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ等と共に来日した全米チームの一員です。この時チャーリー・ゲーリンジャーも一緒に来日しています。
*昭和9年に全米代表チームの一員として全日本軍と対戦するために来日したアール・アベリルが日本で残したサイン(真ん中、ジミー・フォックスの上。
*同じく昭和9年の来日時に日本で残したチャーリー・ゲーリンジャーのサイン。
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