2010年8月18日水曜日

12年秋 阪急vsジャイアンツ 1回戦

9月4日 (土) 洲崎


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 1 0 0 0 2 0 3   阪急             2勝1敗1分  0.667  笠松実-重松通雄
1 2 1 0 0 0 0 2 X 6  ジャイアンツ  2勝2敗        0.500  スタルヒン


勝利投手 スタルヒン 1勝0敗
敗戦投手 笠松実      2勝1敗


二塁打 (阪)山下好、山下実 (ジ)白石、永澤


阪急、新監督の船出を飾れず


 9月4日付け読売新聞は、「阪急軍は三日聯盟事務局に三宅大輔監督に代わって新たにマネージャー村上実氏を監督にまた主将には三塁手黒田健吾選手を登録した」と報じている。三宅監督更迭の表向きの理由はライバルタイガースに負け続けたことによるものであろう。ジャイアンツ監督時代は澤村や田部武雄に慕われた人格者であるが内紛に巻き込まれて阪急に転じ、阪急でもチーム内のゴタゴタに巻き込まれた。組織に迎合するのは苦手であったようである。阪急は何度か触れているようにチーム編成上の問題があり、煎じつめれば宮武三郎と山下実の二人の一塁手を同時に採用したことに帰結する。両雄は並び立たなかったのである。村上実マネージャーが監督となったのも宮武と山下実のどちらを次期監督にするかで揉めたための暫定措置である。しかし山下実派の黒田を主将に据えたのは次期監督は山下実であることを宮武派に知らしめるためであり、実際、翌年山下実が監督に就任していることからこの後宮武派は追い詰められていったのであろう。翌年宮武が内野手登録から投手登録に変わっているのも一塁手は山下実であることを周知させるためであろう。宮武は昭和13年限りで引退することとなる。いずれにしても阪急があれだけのメンバーを揃えながら成績をあげることができなかったのはチーム編成上の問題に起因する。これは戦後の灰色ブレーブスに引き継がれ、西本・上田時代に黄金期を迎えながら、人気球団となったタイガースとは対照的に球団経営からも撤退せざるをえなくなるのである。


 ジャイアンツは初回、一死後筒井修が四球に歩き水原茂との間でエンドランを決めて一死一三塁、中島治康の右犠飛で1点を先制する。2回は二死後スタルヒン、倉信雄の連打から白石敏男が中越えに二塁打を放って2点を追加。更に3回、代わったばかりの重松通雄から水原が四球を選び盗塁、一死後前川八郎も四球に歩くとダブルスチールを決めて一死二三塁、永澤富士雄の一ゴロで水原が生還してノーヒットで1点を加え4-0とする。


 阪急は4回、山下実四球、キヨ野上清光の三ゴロでランナーが入れ替わり、山下好一の右翼線二塁打とジミー堀尾文人の死球で一死満塁、ここで上田藤夫がスクイズを決めて1-4とする。


 阪急は8回、四球と二つのエラーで二死満塁とし、代打石田光彦が右翼に2点タイムリーを放って3-4と追い上げるが、ジャイアンツはすかさずその裏、前川右前打、永澤右中間二塁打で一死二三塁とし、平山菊二の遊ゴロの間に1点、スタルヒンの右前タイムリーで計2点を追加して結局6対3で勝利をおさめる。スタルヒンは6安打2四球7三振で完投勝利。


 阪急4回の攻撃、4点ビハインドで迎えた一死満塁の場面でスクイズのサインを出したのは村上新監督であったのだろうか。村上実は慶應義塾大学時代、野球部の名マネージャーとして鳴らしたので素人ではないがいかにも消極的、スクイズの次に代打に送られた宮武三郎はどのような気持ちで打席に立ったのであろうか。宮武は一塁ゴロに倒れる。

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