9月12日 (日) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 計
0 0 0 2 0 3 3 0 0 1 9 タイガース 7勝2敗 0.778 若林忠志 西村幸生 景浦将
1 0 3 0 1 0 0 1 2 0 8 ジャイアンツ 5勝4敗 0.556 澤村栄治 スタルヒン
勝利投手 景浦将 2勝0敗
敗戦投手 スタルヒン 2勝2敗
二塁打 (タ)山口、田中、景浦、岡田 (ジ)筒井、中島、前川、スタルヒン、平山
三塁打 (タ)藤井 (ジ)水原
本塁打 (ジ)中島 2号・3号
伝統の礎
大和球士氏は「真説 日本野球史」でこの試合を“名勝負六花撰その二”として紹介している。因みに「その一」は昭和12年6月27日の春季リーグ戦ジャイアンツvsタイガース8回戦、延長12回1対0の激闘である。更に因みに「その一」の時に「ご参考までに予告しておくと“六花撰その二”は、17年5月に行われる“延長二十八回の大決戦”であり」と書かれており(1978年7月20日第1刷第1版)、急遽変更したものと考えられる。ジャイアンツは当然澤村栄治の先発、タイガースはジャイアンツ藤本定義監督が新聞誌上で“苦手”と公言している若林忠志の先発。
ジャイアンツは初回、一死後筒井修が中越えに二塁打を放ち水原茂の左前打で一死一三塁、中島治康が右中間を破る二塁打を放って1点を先制。更に3回、一死後筒井が四球で出塁、水原の三ゴロをサード伊賀上良平が失して一死一二塁、ここで主砲中島治康が左翼スタンドにスリーランホームランを叩き込んで4-0とリードを広げる。
春の澤村であればここで勝負あったというところであるが、夏のオープン戦で澤村を打ちこんだタイガース打線は反撃に転じる。タイガースは4回、二死後藤井勇が遊失に生き、本堂保次の右前打で二死一三塁、ここで登場したのが澤村アレルギーの無いカイザー田中義雄、田中は左中間を破る二塁打を放ち二者が還って2-4とする。
タイガースは4回から若林が退き西村幸生が登板する。ジャイアンツは5回、水原が右中間に三塁打を放ち更に中継に入ったショート岡田宗芳の悪送球の間にホームに還り5-2とする。
タイガースは6回、先頭の藤井が四球に歩き、本堂中前打、田中左前打で無死満塁、若林が押出し四球を選んで3-5、続く岡田の三ゴロをサード水原が二塁に悪送球(翌日の読売新聞では本塁に悪送球となっているがスコアブックには「5’-4」と記録されており、二塁への悪送球が史実である。)する間に三走本堂に続いて二走田中も生還して5-5の同点となる。トップに返り松木謙治郎が送って一死二三塁、しかしここは澤村が意地を見せて伊賀上、山口政信が連続三振に倒れる。
タイガースは7回、この回先頭の景浦将が左翼線に二塁打、藤井が右中間を破る三塁打を放ち6-5と逆転、ジャイアンツベンチはここで澤村をあきらめてスタルヒンを投入する。本堂四球後盗塁、田中三振で一死二三塁、打席には西村幸生、打撃も良い西村は左前に2点タイムリーを放ち8-5とする。この場面は「真説 日本野球史」には「“スタ公に一丁噛ましてやるか”とふてぶてしくいい残して右ボックスに立った投手西村が大言通り、三遊間適時安打を放って二者を迎え入れた。」と記されている(当ブログで「スタ公」を用いるのは今回で二度目です。スタルヒンの愛称とお考えください。)。
ジャイアンツは8回、先頭の前川八郎が中前打、二死後スタルヒンが左中間を破り前川が還って6-8(当ブログを継続して読まれている方はスタルヒンの打撃に舌を巻かれていることでしょう。打者としても大成していたのではないでしょうか。)。続く内堀保に代えて代打青柴憲一を起用するが三振、キャッチャーは津田四郎主将に交代する。
ジャイアンツは9回、白石、筒井が倒れて二死無走者、ここで水原がしぶとく四球を選び四番中島治康につなぐ。中島は左越えにこの日2本目となる起死回生の同点ツーランホームランを放って8-8の同点。更に前川四球、平山菊二左翼線二塁打で二死二三塁とするが永澤富士雄の代打山本栄一郎が右飛に倒れて延長戦に突入。山本がライトに入り中島はファーストを守る。
タイガースは10回表、西村に代打藤村富美男を送るが三ゴロ、続く岡田が右中間を抜いて二塁打、松木の三球目にキャッチャー津田のパスボールで岡田は三進、松木四球後盗塁で一死二三塁、続く伊賀上はワンボール後二球ファウルでツーワン(当ブログでは日本式カウントを採用しております。)、ツーツー後三球ファウルで粘り八球目、又も津田がパスボールを犯して岡田が生還し9-8とタイガースが1点をリードする。
西村に代打が送られたことから10回裏のマウンドには景浦がライトから登場、ライトには玉井栄が入る。ジャイアンツは二死後白石が一塁内野安打で出塁して最後の粘りを見せるが筒井が二飛に倒れてゲームセット。9対8でタイガースが激戦を制す。
中島治康は5打数3安打、二塁打1本、本塁打2本、10塁打6打点を記録する。1試合10塁打は景浦将と門前真佐人の持つ9を抜く新記録(昭和11年を除く。当ブログが手作業でまとめた記録に基づくものであり公式記録と異なる可能性がありますのでご注意ください。)。
巨人vs阪神戦の激闘と言えば1973年10月11日の10対10の引き分け試合を覚えている方も多いことでしょう。この試合は後楽園球場のデーゲームで行われました。当時中学三年の筆者は学校からの帰り、この試合を水道橋駅から眺めていました。水道橋駅のお茶の水側階段横の窓から後楽園球場の三塁側スタンド上段が見えました。市川から千代田区に通っていた(いわゆる越境入学、当時の市川市の小学生の多くは千代田区の中学に通っており、筆者のクラスの3分の1は千代田区に通っていました)筆者は、後楽園球場に通うため(東映vs西鉄戦を見るため、1973年のみ日拓ホームvs太平洋クラブです)定期券はお茶の水までではなく水道橋まで買っていました。水道橋駅にも地鳴りのような歓声が聞こえていました。翌日阪神は中日に敗れ(巨人がこの試合の途中新幹線で中日球場の横を通過したことで有名です。)、甲子園で巨人が阪神を破りV9が達成されました。阪神ファンに殺される可能性があったため川上監督の胴上げは行われず、試合終了と同時に巨人ナインは全速力でダッグアウトに逃げ込みました(高橋一三の逃げ足の速かったこと)。
後楽園球場における巨人vs阪神の第一戦は歴史的激戦となり伝統の礎となったのである。
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