4月3日 (木) 西宮
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 2 0 1 3 朝日 1勝0敗 1.000 菊矢吉男 山本秀雄
1 0 0 0 1 0 0 0 0 2 名古屋 0勝1敗 0.000 森井茂 村松幸雄 西沢道夫
勝利投手 山本秀雄 1勝0敗
敗戦投手 西沢道夫 0勝1敗
勝利打点 坪内道則 1
坪内道則、決勝タイムリー
昭和16年1月18日付け読売新聞は「ラ軍『朝日』と改称」の見出しで「ライオン軍はこの度重役陣を充実させ更に球団名変更を17日発表した。・・・常務取締鈴木龍二、田中勝男両氏が就任、田中氏は総監督を兼ね監督に往年早稲田の名投手竹内愛一氏が坐り、球団名は『朝日』軍と変更されて今後の活躍を期すこととなった。」と伝えている。
田中勝雄は一般的には「勝雄」と表記されると思います。読売新聞では「勝男」と表記されていますが、当ブログでは「田中勝雄」とさせていただきますのでご了承ください。田中は早稲田大学時代「和製ベーブ」と言われた強打者で、1200グラムのバットを振り回していたと伝えられています。そのバットは千葉県下総中山にある「吉沢野球博物館」に展示されています。1985年に野球殿堂入り、野球殿堂博物館の紹介文では「温厚篤実な人格者で、当時の飛田穂洲監督は『学生選手の範』と激賞した。」と紹介されています。
飛田穂洲著「熱球三十年」は「平凡な大投手、竹内愛一」の章で竹内を伝える貴重な文献です。同著が伝える田中勝雄の記述と共に、現代に伝わる「竹内像」、「田中像」の基本になっていると言えるでしょう。
「野球界」昭和15年4月15日号(当時の「野球界」は月2回の発行でした)に「小西監督 一線を引く 総監督に」と言う記述が見られます。名古屋は本田親喜、桝嘉一の二頭体制となりますが、“船頭多くして”の例え通り迷走を続けることとなります。同年8月1日号には「本田を監督に昇格、桝、大沢、芳賀、吉田、三浦を技術指導委員に、桝を委員長に任ずる。」の記述も見られます。15年春季シリーズでは巨人と優勝を争った名古屋が今季期待を裏切って下位に低迷することとなる要因は上層部の混乱にありました。
名古屋は初回、二死後桝嘉一が四球を選んで出塁、吉田猪佐喜の中前打で二死一二塁、服部受弘が四球を選んで二死満塁、三浦敏一が押出し四球を選んで1点を先制する。
名古屋は5回、一死後村瀬一三が中前打で出塁するとワイルドピッチで二進、桝が四球を選び、吉田は三邪飛に倒れるが、服部が三打席連続四球で二死満塁、三浦が又も押出し四球を選んで2-0とする。
名古屋は6回、先頭の森井茂が右前打で出塁するが木村進一の遊ゴロは「6-4-3」と渡ってダブルプレー、ところがここから本田親喜が四球から二盗を決め、村瀬も四球から重盗に成功、桝もこの試合3つ目の四球を選んで二死満塁、朝日ベンチはここで先発の菊矢吉男から山本秀雄にスイッチ、吉田が二ゴロに倒れてスリーアウトチェンジ。菊矢は5回3分の2で10四球を記録した。
名古屋の開幕投手に指名された森井茂は初回先頭の坪内道則に中前打を許すがその後は6回までに許した走者は4回二死後に五味芳夫に与えた四球のみ、試合は名古屋ペースで7回を迎える。
朝日は7回、先頭の灰山元章が左前打で出塁、五味芳夫は中飛に倒れるが、前田諭治が四球を選んで一死一二塁、セネタース時代の昭和12年春以来の出場となる岩田次男が中前にタイムリーを放って1-2、一走前田は三塁に進んで一死一三塁、名古屋ベンチはここで先発の森井から村松幸雄にスイッチ、伊勢川眞澄の打球は右前に抜けるがライト吉田が一塁に送球してアウト、ライトゴロが記録されるが三走前田が還って2-2の同点に追い付く。伊勢川には打点が記録される。
名古屋は9回から三番手として西沢道夫をマウンドに送るがこれが裏目に出た。
朝日は9回、一死後岩田の三ゴロをサード芳賀直一がエラー、伊勢川が四球を選んで一死一二塁、山本は三飛に倒れて二死一二塁、トップに返り坪内が中前に決勝タイムリーを放って3-2としてチーム名変更初試合を飾る。
山本秀雄は8回、9回と先頭打者を出すが何れも併殺で切り抜けて今季初勝利をあげる。
*好リリーフの山本秀雄は今季初勝利をあげる。
*ライオンから名前が変わった朝日の開幕オーダー。
*森井茂が開幕投手に指名された名古屋の開幕オーダー。
大正時代は打者よりも投手の方に俊英が多く、あまり話題になりませんが、私個人は田中勝雄は大正時代一のスラッガーと考えています。
返信削除時代はやや前後しますが、田中の他にも「ベーブ」と言われた河合君次(早大)、井口新次郎(早大)、熊谷玄(明大)がいましたが、東京五大学(六大学前身)で一試合2本塁打を記録したのも、シーズン3本塁打を記録したのも、田中が初めてです。
8シーズンで40試合154打数54安打という記録が残っています。
http://eiji1917.blog62.fc2.com/
投手では小野三千麿、内村祐之、谷口五郎、渡辺大陸、湯浅禎夫、竹内愛一でしょうか。「野球雲」第二号でも大正野球を特集していますがちょっと突っ込み不足ではないかと考えています。客観的数値で大正野球を分析してみたいですね。
返信削除浜崎真二、藤本定義も入れたい所ですが、この面子の中だと見劣りしてしまいますね・・・。
削除あの時代の野球を客観的数値から分析するのは、多大な労力を費やす事になるかもしれませんね。仕方の無い事ですが、数字よりも白髪三千丈ばりの逸話の方が数多く伝わりましたし、なにぶん、大正時代は野球史としては埋没したか記録されず欠落した部分が多いようです。
私はシカゴ大学、ワシントン大学の来日、都市対抗野球大会の元祖というべき実業団野球大会に着目していますが、本格的に腰を上げるのはあと何十年先の話になりそうです(笑)。
話は脱線しますが、巷で話題になっている花巻東の千葉外野手。ふと東洋大姫路の前原二塁手が思い浮かびましたが、shokuyakyu様は覚えていらっしゃいますか。
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削除72年に甲子園に出てきた前原のカット打法については、各種マスコミは高校野球らしい選手として絶賛していました。ところが中島治康だけは読売新聞のコラムで「バッティングとはフェアグラウンドに打つものである。ファウルで逃げるのは邪道である。」と論破していました。日本初の三冠王は知っていましたが、私が中島治康の名前を明確に認識したのはこの読売新聞のコラムを読んだ時でした。
削除「セットポジション」というサイトの「ルールを変えた男」に詳しく書かれていますね。
東洋大姫路の1回戦の相手は習志野高校だったのでこの試合はテレビで見たことを覚えています。2年生の掛布が四番ショートでした。当時のアサヒグラフで確認すると前原は九番セカンドで出場して3打席2打数無安打1三振1犠打で四球は選んでいません。上記サイトによると、郷司主審に「次はバントファウルと判定する」と注意を受けたそうです。
千葉のカット打法を見て、「中島治康が生きていたらどんなコメントをするのかぁ~」と思っていたところです。