4月4日 (金) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 1 0 1 0 0 2 南海 1勝1敗 0.500 川崎徳次 石田光彦
0 0 0 0 1 0 2 0 X 3 大洋 1勝1敗 0.500 浅岡三郎 古谷倉之助
勝利投手 浅岡三郎 1勝0敗
敗戦投手 川崎徳次 0勝1敗
セーブ 古谷倉之助 1
二塁打 (南)鬼頭、岡村 (大)森田
本塁打 (大)石井 1号
勝利打点 中村信一 1
猛打賞 (南)岡村俊昭 1
ファインプレー賞 (大)黒澤俊夫 1
足の金鯱に苅田野球
結論から先に言いますと、今季南海と大洋(セネタース(翼)と金鯱が合併)は大躍進することとなります。南海は大量の応召と退社がありましたが戦力補強が巧くいったこと、大洋は翼と金鯱が合併して戦力を強化したことが要因ですが、応召で戦力が削がれたタイガース王朝の没落と、首脳陣の混乱により下位を低迷することとなる名古屋の不振に助けられる面もあるようです。
南海は初回、岡村俊昭が中前打を放ち二盗を試みるがキャッチャー柴田多摩男からの送球にタッチアウト。直後に岩本義行が四球で歩くが鬼頭数雄は中飛に倒れる。
南海は2回、一死後安井健太郎が三塁に内野安打、柳鶴震は二飛に倒れるが、松本光三郎が左前打を放って二死一二塁、しかし川崎徳次は二飛に倒れてスリーアウトチェンジ。
南海は3回、先頭の国久松一が四球で出塁、岡村が中前打で続いて無死一二塁とするが岩本、鬼頭、村上一治のクリーンナップが倒れて無得点。4回も一死後柳が左前打を放つが得点ならず、4回まで5安打2四球ながら無得点が続く。
一方、大洋は初回、先頭の苅田久徳が四球で出塁するが高橋輝彦の三ゴロが「5-4-3」と渡ってダブルプレー。2回も先頭の黒澤俊夫が中前打、石井豊が四球を選んで無死一二塁とするが、森田実の一飛に飛び出した二走黒澤が戻れずダブルプレー。3回、4回は三者凡退に終わり、0対0のまま5回を迎える。
南海は5回、先頭の国久が四球で出塁、岡村の一ゴロでランナーが入れ替わり、岩本は三邪飛に倒れて二死一塁、鬼頭が左中間を抜いて岡村を還し1点を先制する。
大洋は5回裏、先頭の石井が左翼スタンドに同点ホームランを叩き込んで1-1とする。更に森田が左中間に二塁打を放って無死二塁、しかし西岡義晴は遊ゴロ、柴田は投ゴロ、浅岡三郎は一邪飛に倒れて追加点はならず。
南海は7回、二死後岡村が右翼線に二塁打、岩本が左前にタイムリーを放って2-1と勝ち越す。
大洋は7回裏、先頭の森田が四球に歩くと二盗に成功、西岡が四球を選んで無死一二塁、大洋は柴田に代えて代打に中村信一を起用、南海は先発の川崎を下げて石田光彦を投入、ここでダブルスチールを決めて無死二三塁、中村が期待に応えて右前に逆転の2点タイムリーを放って3-2、これが決勝打となった。浅岡に代わる代打野口二郎は三振、中村が二盗を決めて二死二塁、苅田が四球を選んで二死一二塁、又もダブルスチールを決めて二死二三塁、濃人渉は三振に倒れてスリーアウトチェンジ。大洋はこの回6個の盗塁を成功させた。
代打の野口はライトに入り、二番手として古谷倉之助がマウンドに上がる。古谷は2イニングをピシャリと抑え、無安打無四球1三振で当ブログルールにより今季初セーブを記録する。
南海打線は見違えるような迫力のある打線となった。大洋は「足の金鯱」に「苅田野球」が加味されて一イニング6盗塁を記録、両チームの今季の躍進を予感させるゲームであった。
*古谷倉之助が好リリーフを見せて今季初セーブを記録する。
*岡村俊昭が猛打賞、岩本義行、鬼頭数雄が打点を記録しするなど迫力が増した南海打線。
*7回に一イニング6盗塁を記録した大洋打線。
*一イニング6盗塁の場面。「O’」又は「O”」が盗塁です。
開幕戦前の大洋軍については、
返信削除『・・・金鯱からの選手には黒沢、濃人、森田、上野等打撃の良い選手が多い丈けに、旧翼の小林、高橋、野口等を加えると、全然翼とは性格の違ったチームが出来上る。翼が守備のチーム、小細工のチームであったのに対して、打撃力が看板にする本格的チームに成った訳だ。
従って戦法もガラリと変えなければならない。四球を選ばせてはバントして送ってチャンスを作る事に慣れた苅田が、打って打って打ち捲らせなければならなくなった。勿論、点を大きく引離して居る時には何でもないが、接戦の場合、打たせるか、送らせるか、随分迷う場合も多かろう。翼臭がしみ込んで居ると、こんな咄嗟の場合、消極的な戦法がつい出て仕舞う事も想像に難くない。』(1941年・野球界四月号)
苅田の著書にも書いてありますが、外部の人間は大洋軍にこの試合の様な足を使った戦法よりも打ち勝つ野球を期待していようですね。
第一、当時の職業野球は小細工を駆使した学生野球のような戦術よりも、長打を飛ばすビッグボールのような野球を目指していました。ただし、実際の所ビッグボール的な戦略をとる事ができたのは東京巨人軍ぐらいでしたが。
結果として大洋軍の打撃陣は思う様に機能せず、結局苅田は翼軍時代と同様の戦法をとらざるを得なくなり、これが采配批判にさらされた、とこれも苅田の著書に書いてありましたね。
苅田の自伝「天才内野手の誕生」に書かれている大洋のメンバーには上野義秋は含まれていませんが背番号8として登録されたのは確かなようです。上野は昭和16年には試合出場の記録はなく、プロ野球に復帰するのは10年後の昭和25年西鉄クリッパース時代となります。
削除「野球界」昭和15年10月号に掲載されている「選手総展望」に上野義秋は、「左利き、体は案外柔らかい」と書かれています。上野は一度キャッチャーをやったことがありますのでこれが本当だと日本プロ野球史上唯一の「左のキャッチャー」ということになりますが、他の資料では全て右投げ右打ちとなっていますので間違いのようです。