二位阪神を10.5ゲーム引き離して優勝した巨人はスタルヒン→須田博が38勝12敗、中尾輝三が26勝11敗、マラリアの再発により終盤戦を棒に振った澤村栄治が7勝1敗。鬼頭数雄と激しく首位打者の座を争った川上哲治が弾丸ライナーを炸裂させた。レギュラークラスの応召がなかったことが最大の勝因であった。来季もレギュラークラスは戦地に赴かないので優勝するでしょう。
阪神は三輪八郎(16勝5敗)と木下勇(17勝11敗)の奮闘で阪急との二位争いを制した。満州リーグでは森国五郎が4個の勝利打点を記録した。終盤出てきた藤村隆男は7勝中6試合が完封勝利であった。序盤戦に岡田宗芳が応召、終盤戦で伊賀上良平も応召し、第一期黄金時代のメンバーで残る野手は松木謙治郎だけとなった。来季は更に苦しくなるでしょう。
阪急は森弘太郎が28勝13敗、コントロールの良さでは当代随一です。12勝7敗の浅野勝三郎は秋季リーグでは一時首位打者でもあり、“二刀流”の活躍であった。ファーストに山下実と新富卯三郎がいるので森田定雄の出番は少ないが、110打数34安打、打率3割9厘をマークした。
翼は野口二郎が33勝11敗であったが肩を痛めて本来のピッチングではなかった。柳鶴震は75失策で現在まで残る歴代最多失策記録を樹立したが、併せて強打ぶりも発揮した。来季は金鯱と合併して大洋となる。
名古屋は小西得郎監督の手腕が冴えて春季シリーズでは優勝目前までいった。西沢道夫が20勝9敗、村松幸雄が21勝13敗を記録、13勝13敗の松尾幸造にも20勝する力はある。
黒鷲は亀田忠が26勝23敗であったが中河美芳が7勝15敗と不振だったのが響いた。来季は岡田福吉、岩垣二郎の一二番コンビが応召するので苦しい展開が予想される。
金鯱は後半打線が活発であった。18勝29敗の中山正嘉は8セーブを記録してセーブ王に輝いた。濃人渉は満州リーグで首位打者となり8月の月間MVPを獲得した。森田実は第21節殊勲賞、第23節週間MVP、第25節殊勲賞と終盤戦で大活躍し、鈴木惣太郎がその進境ぶりを絶賛している。
南海は大量の応召で予想通り苦戦した。清水秀雄の投打にわたる奮闘も空しかった。清水秀雄が歴代最高の“二刀流”であることは当ブログの実況中継が証明しています。6月4日のジャイアンツ戦で澤村栄治からプロ入り初ヒットを放った木村勉はこれをきっかけにレギュラーポジションを掴み、戦後も松竹水爆打線に名前を連ねるなど通算1,118安打を記録することとなる。来季は更に大量の応召となり巨人とは対照的に軍部に狙い打ちされることとなる。
ライオンは鬼頭数雄が川上との争いを制して首位打者に輝いた。その陰に勝負処で川上を封じた近藤久の奮闘があったことは当ブログが発掘した歴史的事実であった。来季は満州日日新聞の吉田要記者がその素質を絶賛する福士勇の活躍が期待される。「ライオン」は日本語であるとしてオーナーの田村駒治郎は最後まで粘ったが、軍部の圧力には抗しきれず来季は球団名を「朝日」に変更する。
昭和15年最大の話題は満州遠征でした。満州遠征は快挙であったのか、愚挙に過ぎなかったのか。昭和15年12月11日付け都新聞に大和球士が「満州遠征行の功罪論」の見出しで論評している。「遠く満州の野に転戦した事は充分賞賛に値する・・・処が折角の快挙に惜しい瑕があった、何故か、携行したボールが超粗雑品であったのだ・・・諸君は慶大の大投手浜崎真二の名前を忘れはしまい、その浜崎君がプロ野球の来満を喜んで、前売り切符を求め某都市へ一週乃至十日間の泊りがけで現れたそうだ・・・浜崎君は一日見ただけでプイと任地に戻ってしまった。・・・帰り際に漏らした言葉は『あれがプロ野球か』であったそうだ。恐らく浜崎君の持った感想は満州愛球家を代表しているものであろう。」
都新聞では昭和15年の記事に「職業野球」ではなく「プロ野球」を使っています。
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