昭和16年6月22日付け読売新聞に掲載されている鈴木惣太郎による論評は畑福俊英を絶賛しています。
「5月18日に帰還した畑福は未だ1か月足らずの日子を過したばかりであるのに黒鷲投手不足の悲境に自ら投手を買って出たことが既に悲壮の意気であるが、彼はチェンジ・オブ・ペースの武器を基本にして剛速球に、ドロップに、そしてナックル・ボールに縦横無蓋怪腕を揮って阪急軍の強打をよく防いだのは目覚ましかった。」
「攻撃に於ける畑福は3回、8回と先頭を切って痛烈な安打に出塁したが後続少しも振わず二度とも二塁に立ち往生に終わらしめ得点機は全くなかった。」
畑福俊英の投手としてのキャリアは昭和18年までで終わりますが、戦後は千葉県の専修大学松戸高等学校(以下「専大松戸」)の監督を務めることとなります。
専大松戸は千葉県高校野球の黄金時代にも千葉県予選ではベスト8、ベスト4の常連として古くから「せんまつ」の愛称で千葉県高校野球ファンに親しまれてきました。その専大松戸の礎を作ったのが畑福俊英監督だった訳です。
一時は低迷の時期もありましたが、持丸監督を招聘して近年は急速に力を盛り返してきており、当ブログでは数年以内に甲子園初出場を成し遂げると予測しています。
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