7月9日 (火) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 計
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1 ライオン 15勝35敗2分 0.300 福士勇
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1 金鯱 13勝34敗5分 0.277 中山正嘉
二塁打 (金)濃人
勝利打点 なし
福士勇、11回二死まで無安打無得点
7月7日で関西シリーズが終了して本日から後楽園シリーズとなります。6月28日~7月7日までの甲子園・西宮球場27試合ではホームランは1本も出ませんでしたが狭い後楽園球場ではどうでしょうか。
ライオンは初回、一死後加地健三郎が右翼線にヒット、二死後鬼頭数雄が四球を選び、戸川信夫の右前打で二死満塁、しかし野村高義は二ゴロに終わる。2回は先頭の伊勢川眞澄が三塁内野安打で出塁するが三振ゲッツーでスリーアウトチェンジ。3回も一死後加地が四球で出塁して二進するが中山正嘉からの牽制球にタッチアウト。ライオンは序盤の拙攻が響き、9回まで5安打4四球6三振で無得点。
金鯱はライオン先発の福士勇の前に手も足も出ず、9回まで無安打4四球9三振無得点に抑えられる。
ライオンは10回、一死後坪内道則が一塁線にセーフティバントを決めるが加地、玉腰は連続三振に倒れる。
金鯱は10回裏、室脇正信は三ゴロ、漆原進は遊ゴロ、中山正嘉は二飛に倒れてここまで無安打無得点。
ライオンは11回、先頭の鬼頭数雄の一ゴロをファースト室脇がエラー、戸川が死球を受けて無死一二塁、井筒研一の送りバントは中山が巧く捌き鬼頭が三封されて一死一二塁、重盗を決めて一死二三塁、伊勢川に代わる代打広田修三が四球を選んで一死満塁、ここで戸川がホームスチール、キャッチャー大宮清がエラーする間に戸川がホームインして1点を先制する。記録は捕失で戸川には本盗は記録されていない。翌日の読売新聞には戸川のホームスチールの場面が「戸川果敢な本盗」の見出しと共に写真入りで紹介されている。中山の投球がワンバウンドとなってキャッチャー大宮が弾いたようなので記録はワイルドピッチでもおかしくないのではないでしょうか。
金鯱は11回裏、大宮に代わる代打荒川正嘉が右飛に倒れてここまで無安打無得点、トップに返り五味芳夫が中飛に倒れて二死無走者、福士勇は快挙達成まであと一人となったが佐々木常助が左翼線に初ヒット、続く濃人渉の左中間二塁打で佐々木が還って1-1の同点、黒澤俊夫が一ゴロに倒れて延長11回引き分く。
金鯱先発の中山正嘉は160球で11回を投げて6安打5四球1死球8三振1失点、自責点0の投球であった。
ライオン先発の福士勇は11回二死まで無安打無得点、結局、145球で11回を投げて2安打4四球9三振1失点、自責点1であった。9回までノーヒットノーランのまま延長戦に突入したのはプロ野球史上福士勇が初めてのこととなる。この後2012年に至るまで同様の事象が10事例(1949年10月1日のみ杉下茂-服部受弘の継投)確認されているが、延長戦でノーヒットノーランを記録したのは1973年8月30日の江夏豊のみであり、他の9事例では全て延長戦でヒットを打たれている。この9事例のうち11回二死まで無安打無得点だった事例は本日の福士勇以外では1958年10月9日の児玉泰のみであり、福士勇はプロ野球史上江夏豊に続いて児玉泰と並んで史上二番目に長く無安打無得点を続けた投手ということとなる。
*福士勇と中山正嘉による延長11回の投げ合い。福士は11回二死までノーヒットノーランを続けた。
*金鯱打線は11回二死まで福士勇に無安打無得点に抑えられてきたが土壇場で佐々木常助、濃人渉の連打が出て1対1に追いついた。
*ライオン11回表の攻撃で戸川信夫がホームスチールを試みた場面(上から二つ目のボックス)。記録はキャッチャーのエラーで戸川には本盗は記録されていない。
*1958年10月9日の広島戦で11回二死までノーヒットノーランを続けたが、ピッチャーも拝藤宣雄にヒットを打たれた児玉泰のサイン入りカード。児玉は松山商業入学時に空谷家の養子となっており、野球史ではプロ入り時の入札問題による「空谷事件」として名前が残っている。プロ入り後も1957年までは「空谷泰」を名乗っていたが、1958年から旧姓の「児玉泰」で登録された。サインも「児玉泰」である。
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