7月6日 (土) 西宮
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
1 0 0 0 0 0 0 1 0 2 ライオン 15勝34敗1分 0.306 近藤久
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 金鯱 13勝34敗4分 0.277 内藤幸三
勝利投手 近藤久 3勝8敗
敗戦投手 内藤幸三 2勝4敗
勝利打点 戸川信夫 1
近藤久、今季3度目の完封で3勝目
ライオンは初回、二死後玉腰年男が四球を選んで出塁、鬼頭数雄の三塁内野安打で一死一二塁、戸川信夫が左前に先制タイムリーを放って1-0とする。
ライオンは8回、一死後加地健三郎が四球を選んで出塁、玉腰が左中間にタイムリー二塁打を放って2-0とする。
いつも守備の破綻で試合を失ってきたライオンは本日は無失策であった。翌日の読売新聞には「ラ軍内野陣の無失策も珍しかった」と書かれている。
近藤久は3安打2四球6三振で今季3度目の完封、3勝目をあげる。すなわち、近藤の勝利数に占める完封率は10割である。翌日の読売新聞によると「ライオン投手近藤は申分ない制球力でプレーとを斜めに切る直球を投げ込んで金鯱を完封」とのことである。
ライオンの2得点は何れも玉腰年男が絡んだ。初回は四球を選んで先制のホームを踏み、8回は貴重なタイムリー二塁打を放った。玉腰年男は今季限りで兵役に就き、戦後はプロ野球には戻らず朝日新聞の野球記者に転身する。1973年に貴重な文献として資料的価値が高い「東海野球史」を著している。当ブログは玉腰年男は性格的にプロ野球には向かなかったのではないかと考えています。同著には「私が高校野球をこよなく愛する」という記述も見られます。
同著には現在当ブログで活躍中の岡崎中学出身・セネタース佐藤武夫捕手が戦後はノンプロの愛知産業に所属していたと書かれている。毎日新聞社と日本野球連盟の共同で発行された「都市対抗野球大会60年史」(1990年1月)によると愛知産業は昭和21年~26年の都市対抗に名古屋市代表として出場しており、佐藤武夫は21年、22年、24年の都市対抗に出場したと記録されている。21年は一回戦3打数1安打、準々決勝3打数無安打、準決勝2打数1安打、三位決定戦2打数無安打であった。22年は一回戦2打数無安打であった。23年は出場記録が無く、24年は一回戦で4打数3安打を記録している。佐藤は昭和11年の現行のプロ野球誕生以来昭和19年まで毎年公式戦に出場した珍しいプレイヤーである。膝の故障から応召されなかったものと考えられている。佐藤武夫の公式戦出場は昭和24年の都市対抗が最後であったと考えられる。その最後の試合で4打数3安打を記録したものである。
*近藤久は3安打2四球6三振で今季3度目の完封、3勝目をあげる。
*玉腰年男が活躍したライオン打線。
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