ハクタイセイ号の訃報が伝えられています。ハイセイコーの産駒としてはカツラノハイセイコ(ダービー、天皇賞)、サンドピアリス(エリザベス女王杯)と並んでG1競走(旧・八大競走を含む)を制した皐月賞馬でした。
父ハイセイコーが皐月賞を制したのは1973年、オイルショックによりスーパーの店頭からトイレットペーパーが姿を消した年のことでした。息子ハクタイセイが皐月賞を制したのは1990年、バブル崩壊の年です。日本経済の節目の年に登場した名馬でした。
1990年は日本経済のバブルが崩壊した年でしたが、競馬バブルは正に絶頂を迎えようとしていました。武豊がデビューし、オグリキャップが登場した競馬界はバブルに向かってGoしていた訳ですが、その絶頂が1990年ダービーの「ナカノコール」でした。1989年の朝日杯三歳ステークス(馬齢は旧表記)をマルゼンスキーのタイレコードで制したアイネスフウジンは1990年クラシックロードの主役となるはずでしたが、共同通信杯四歳ステークスを勝っただけで弥生賞はメジロライアンの四着、皐月賞はハクタイセイの二着に敗れました。
この年のダービーは東京競馬場に19万6517人の観衆が詰めかけ、レコードで逃げ切り勝ちを飾ったアイネスウジンが向こう上面から一コーナーを回って直線コースに戻って来た時に期せずして湧き起ったのが、騎乗する中野栄治騎手を称える「ナカノコール」です。この瞬間、日本の競馬は変わりました。まだギャンブルとしてしか見られていなかったハイセイコーの時代から「家族揃って中央競馬」などという現実離れしたキャッチコピーで競馬の大衆化を図ってきた中央競馬会の地道な努力が報われた瞬間でもありました。
「ハクタイセイ」の名前は、ハイセイコー産駒らしくないない「白い」芦毛の馬体と「大成」してほしいという願いから名付けられたものです。この年の牝馬クラシック路線でも芦毛のハイセイコー産駒ケリーバッグが大活躍して「白いハイセイコー」と呼ばれました。ハクタイセイは1990年の皐月賞を制して、その馬名に願いが込められたように「大成」したのです。
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