2013年10月31日木曜日

弾丸ライナー



 「最も見ごたえのあったのは、6回、水原を還した川上の三塁打である。0-2後(ツーボールナッシング=筆者注)、三輪の投げた低目の直球を川上が猛振すると、球は快音を立て、内野線を地上5尺位いの低目で飛んでいくライナーになって、そのまま球は伸びに伸びて右中間の塀に4バウンドで達したのであった。日本球界広しと云えども、川上ただ一人しか打てない“弾丸ライナー”である。」(大和球士著「真説 日本野球史」より)


 昭和15年11月18日付け都新聞に書いた大和球士の「弾丸ライナー」は川上の代名詞となった。



 熊本工業から吉原正喜とともに巨人に入団した川上は昭和13年5月1日、六番ファーストで起用されたが阪急先発・小田野柏に抑えられて2回の第一打席は右飛、5回の第二打席は左飛に倒れて永澤富士雄と交代した。5月7日の阪急戦では9回、代打に起用されるが遊直、9日の金鯱戦ではピッチャーとしてデビューし完投勝利を記録するが打つ方は5打数ノーヒットに終っている。5月14日のイーグルス戦で亀田忠から中前打を放ってプロ入り初ヒットを記録した。


 華々しいデビューを飾った訳でもない川上に転機が訪れたのは夏の北海道遠征中にベテラン一塁手の永澤富士雄が怪我で欠場した試合で活躍してレギュラーの座を掴んだと伝えられている。昭和13年は二シーズン制が採用されており、春季リーグ戦の最終日は7月17日、秋季リーグ戦の開幕日は8月27日であった。春季リーグ戦で川上がファーストスタメンで起用されたのは5月1日の阪急戦だけであるが、秋季リーグ戦は開幕日の8月27日から六番ファーストで起用され主力打者へと成長していくこととなる。昭和13年8月25日発行「聯盟ニュース」によると、「巨人軍、ラ軍(ライオン=筆者注)は横浜を振り出しに東北、北海道へ帯同遠征、両軍の戦績は巨人軍11勝ラ軍2勝に終わった。」と書かれている。春季リーグ戦と秋季リーグ戦の間の中休みに、巨人とライオンは北海道に遠征しており、この遠征で巨人vs函館オーシャン倶楽部との交歓試合が行われ、オーシャン出身の永澤富士雄が当然出場したがこの試合で永澤が右足骨折の重傷を負い、川上がレギュラーの座を掴むこととなったのである。



 当ブログではこれまで川上哲治の全試合をお伝えしてきております。当ブログの実況中継は昭和24年まで続きます。川上は亡くなりましたが、当ブログでの川上の活躍はまだまだ続くこととなります。






*昭和15年11月17日の阪神戦第三打席で川上が放った三塁打が“弾丸ライナー”と名付けられた。











*昭和13年、春季リーグ戦と秋季リーグ戦の間の中休みに巨人とライオンが東北、北海道遠征を行った。その終盤に巨人vs函館オーシャン倶楽部の交歓試合が行われている。この試合でオーシャン出身の永澤富士雄が負傷して川上哲治がファーストのレギュラーとなるのである。下の写真はその事実を伝える昭和13年8月25日発行の「聯盟ニュース」。





























 

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