2013年10月17日木曜日

16年 南海vs朝日 2回戦


4月27日 (日) 甲子園

1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
0 1 0 0 0 0 0 5 0  6 南海 7勝7敗 0.500 神田武夫
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0 朝日 5勝11敗 0.313 福士勇

勝利投手 神田武夫 4勝3敗
敗戦投手 福士勇     3勝5敗

二塁打 (南)村上

勝利打点 村上一治 2


村上一治、2試合連続殊勲の二塁打

 南海は初回、一死後安井鍵太郎が中前打で出塁、岩本義行のセンターラーライナーは坪内道則からファーストの灰山元章に送られ安井は還れずダブルプレー。

 南海は2回、先頭の鬼頭数雄が四球で出塁、村上一治の左中間二塁打で鬼頭が還り1点を先制する。

 朝日先発の福士勇は3回から7回まで南海打線を1安打無失点に抑えるが8回に力尽きる。

 南海は8回、一死後安井が右前打、岩本が死球を受けて一死一二塁、鬼頭数雄が左前にタイムリーを放って2-0、村上が四球を選んで一死満塁、木村勉の三ゴロをサード鬼頭政一(弟)が本塁に悪送球する間に三走岩本に続いて二走鬼頭数雄(兄)も還って4-0、なお一死二三塁から岡村俊昭が中前に2点タイムリーを放って6-0として試合を決める。


 南海先発の神田武夫は初回、二死後室脇正信に四球を与えると鬼頭政一に中前打を許し、灰山元章の三ゴロをサード安井が失して二死満塁とするが村上重夫を遊ゴロに打ち取る。

 神田は初回のピンチを脱して波に乗った。2回は二死後前田諭治に左前打を許すが坪内を二飛に打ち取る。3回、4回は三者凡退。5回二死後坪内に四球を与え盗塁を決められるが、五味芳夫を三振に打ち取る。6回一死後鬼頭政一に四球を与えるが、灰山を三ゴロ併殺に打ち取る。翌日の読売新聞によると「朝日は神田のシュートボールに押され」たとのこと。

 神田武夫は7回、先頭の村上重夫に右前打を許すが伊勢川眞澄を右飛、福士勇を二ゴロ、前田を三ゴロに打ち取り、8回、9回も無安打に抑えて、結局、3安打4四球3三振でプロ入り初完封を飾る。


 村上一治が2試合連続タイムリー二塁打で勝利打点を記録する。村上は来期6試合に出場して兵役に就くこととなる。昭和17年に出場するのは3月28から4月6日までの間だけで、22打数7安打二塁打2本、本塁打1本の記録を残して戦場に赴きます。生き延びて戦後も南海でプレーしますが往年の打力を発揮することはできませんでした。昭和24年に7年ぶりにプロ野球に復帰した時は既に32歳の時です。アスリートとしての全盛期を戦争のため奪われることとなる訳です。Wikipediaには「1941年、南海軍に入団。ルーキーながら5番一塁手として開幕レギュラーの座を掴むもその後大きな実績を残すことは出来ずレギュラー定着にはいたらなかった。」などと書かれていますが、これを書いた人は村上一治が戦争によってアスリートとしての全盛期を奪われた事情を理解した上で書いているのでしょうか?ただ数字の羅列だけを見て空想で書いているだけでしょうね。こういう記述を目にすると、激しく怒りを感じます。








             *神田武夫は朝日打線を3安打に抑えてプロ入り初完封を飾る。












     *神田武夫に3安打に抑えられた朝日打線。








 

3 件のコメント:

  1. 村上一治は法大第19代目野球部主将を務めています。六大学では強打者として知られましたが、通算本塁打は1本のみ。しかし、その1本は1939(昭和14)年秋のリーグ戦において唯一の本塁打でした。春のリーグ戦では慶大の飯島滋弥(のち大映)、井上友一郎(のち国鉄)がそれぞれ1本を打ったのみ。翌年の1940(昭和15)年は1本も本塁打が出なかったのですから、その稀少さがおわかりでしょう。
    戦後はシベリアでの抑留生活もあって、肥大漢に変貌してしまいましたが、南海の代打の切り札として活躍しました。1951(昭和26)年の巨人との日本シリーズでは第5戦に藤本英雄から本塁打。これが日本シリーズ史上初の代打本塁打だったと思います。
    Wikipediaの一文にはとてもガッカリしますが、確かに"数字"のみではそういった印象しか浮かばないのではないかと思います。

    http://eiji1917.blog62.fc2.com/

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    1. 7年ぶりにプロ野球に復帰した1949年はいきなり13打数5安打、3割8分5厘のハイアベレージを残していますので相当の打力の持ち主であったことがうかがえます。48歳で亡くなっているというのもシベリア抑留の影響でしょうか?

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    2. 早逝した理由にシベリア抑留が影響しているかはわかりません。
      ただ、水原茂と同様シベリアで受けたダメージは大きかったと思います。村上一治は1949(昭和24)年に南海に復帰した時はスプリングキャンプから参加しているのです。ですが、その年出場したのはたったの13試合です。選手として再出発するのに、春先からかなりの時間を費やした事でしょう。今なら、とは失礼にあたる事と思いますが、カムバック賞ものです。

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