2014年8月15日金曜日

16年 東西対抗



 昭和16年東西対抗は読売新聞主催の3試合と聯盟主催の3試合、合計6試合が行われた。西軍竹内愛一監督、東軍藤本定義監督の指揮の下、11月29日から後楽園球場で行われた3試合が読売新聞主催によるもので「第1回」の冠が付いている。12月6日から甲子園球場で行われた連盟主催の3試合には「第5回」の冠が付いている。読売新聞誌上の扱いは当然、同社主催となる後楽園の3試合の方が断然大きい。


 後楽園球場で行われた第一戦は野口二郎と森弘太郎の投げ合いで延長16回、0対0で日没引分けとなった。翌日の読売新聞によると、森田実と呉波がファインプレーを演じる熱戦であったとのこと。野口と森に「健投賞」が贈られた。

 翌30日の第二戦は西軍が3回に3点を先取したが東軍が6回に一挙4点をあげて逆転、4対3で東軍が勝利した。中尾輝三が先発したため東軍のスタメンは全て巨人となった。途中からファーストは川上から中河美芳に、ライトは中島から森田実に交代している。4回の攻撃で中尾に代打吉田猪佐喜が起用されリリーフに村松幸雄が登板、更に7回途中から広瀬習一がリリーフに立ち西軍を無安打に抑えてセーブを記録した。東軍の決勝点は6回一死満塁で打席に立った中河の右犠飛によるものであった。3打数3安打を記録した呉波に「殊勲賞」が贈られた。

 12月1日の第三戦も西軍が1回に1点を先制したが東軍が5回に2点を入れて逆転、7回にも1点を加えた東軍が3対1で連勝した。先発した中尾を5回からリリーフした広瀬が5イニングを無安打1四球に抑えて「殊勲賞」に輝いた。


 3日間の「最高殊勲選手」に吉原正喜が選出された。首位打者は7打数5安打の呉波であった。第二戦と第三戦の試合前にホームラン競争が行われ、中島治康が二日間とも3本塁打を放った。第三戦では岩本義行が4本塁打を記録、東軍で中島、川上と共に選ばれた中河美芳も1本塁打を記録している。



 
 12月6日から聯盟主催東西対抗が甲子園球場で行われた。第一戦は西軍が東軍先発野口二郎の立上りを攻めて1回と2回に1点ずつをあげ、5回にもリリーフした広瀬習一から2点を取って4対1で勝利した。川崎徳次が東軍打線を2安打1失点に抑えて完投勝利をおさめた。


 翌7日の第二戦は野口二郎が完投して東軍が3対1で勝利した。西軍は神田武夫-森弘太郎の豪華リレーであった。翌日の読売新聞によると、西軍1点リードで迎えた7回、二死一三塁で打者吉原正喜のカウントツーツーの場面、ファウルチップがボールと宣告される誤審があり、気落ちした森が連続四球を与えて同点にされ、8回、9回も失策による失点であったとのこと。

 12月8日、運命の時を迎える。藤本定義の自伝「覇者の謀略」の冒頭は「昭和16年12月8日、私は、日本が、米英に対して宣戦を布告したことを甲子園球場の一塁側コーチス・ボックスで知った。毎年シーズン末に行われていた東西対抗戦の、東軍の監督として指揮をとっていたとき、日本が米英に宣戦を布告して、戦闘状態にはいったという場内放送が行われたのである。」で始まる。

 試合の方は東軍が千葉茂が記録した1打点を中尾輝三-野口二郎のリレーで守りきり1対0で逃げ切ったが、恐らく試合どころではなかったでしょう。翌日の読売新聞に掲載されているこの試合の戦評が僅か8行で終わっていることがそれを物語っている。


 最優秀選手賞は三日連投の野口二郎、最優秀打者賞は7打数3安打のカイザー田中義雄に贈られた。







 

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