2010年7月31日土曜日

12年春 タイガースvs名古屋 8回戦

7月8日 (木) 西宮


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
1 0 1 0 0 2 0 2 0 6 タイガース 40勝12敗1分 0.769 若林忠志
0 0 0 0 0 0 1 0 0 1 名古屋   19勝33敗    0.365 木下博喜-田中実


勝利投手 若林忠志 8勝1敗
敗戦投手 木下博喜 3勝11敗


二塁打 (タ)藤井 
三塁打 (タ)山口、藤井


松木の執念に景浦が応えて先制


 タイガースは初回、松木謙治郎四球から盗塁、一死後山口政信の三ゴロで松木が飛び出す、白球は5-4-5-6-4と転送されてタッチアウト、しかし松木の時間稼ぎの間に山口は二塁に進む。そして景浦将が左前に先制タイムリー。松木の執念に弟分の景浦が応えて1点を先制(松木著「タイガースのおいたち」によると松木は景浦を実の弟のように思っていたとのこと)。挟まれるのは仕方がない、問題はそこからの対処であり次のランナーが進塁する時間を稼ぐべきである。昨今の挟殺プレーを見ていると挟まれた走者には次のランナーを進めてやろうという意欲が見えず、次のランナーには次の塁を奪ってやろうという意欲に欠けているケースが圧倒的に多い。そもそも「大脱走」に見られるように欧米では捕虜になった場合は後方をかく乱する義務が課せられていたが大日本帝国では捕虜となること自体が恥ずべきこととなっていた。ところが昭和12年当時には塁間に挟まれた走者(戦争における捕虜のようなもの)は何とか次の走者を進めよう(すなわち後方かく乱義務を果たそう)と努力しているケースが目立つことは当ブログを読んできていただいている方々はお気づきのことと思う。しかるに平成の世になってからは塁間に挟まれること(捕虜となること)が大日本帝国時代の恥ずべきことに戻ってしまったのかヘラヘラと挟まれているケースが散見される。松木や三原のプレーをスコアブックに残された記録から追っていくと、何故二人が玉砕してもおかしくなかった戦地から生きて戻ってきたのかが分かるような気がする。

 タイガースは3回、二死から藤井勇が左翼線に二塁打、続く山口が右前にタイムリーして2-0。更に6回、藤井が四球で出塁、山口の中越え三塁打で3-0、奈良友夫の右飛がライト白木一二からショート芳賀直一に返球される隙を突いて山口がホームに駆け込み4-0、このケースでは犠飛は記録できない。

 若林忠志は6回まで名古屋打線を3安打無得点に抑える。名古屋は7回、白木が左前打で出塁、前田喜代士の左飛をレフト藤井が落球、芳賀直一の送りバントが内野安打となり無死満塁、7回からマウンドに上がった田中実は二ゴロゲッツー、この間に三走白木が還り1-4とする。しかしタイガースは8回、松木四球、藤井が右中間に三塁打して5-1、奈良の遊失の間に藤井が還り6-1とリードを広げる。

 若林は8回、9回とランナーを出しながらも要所を締めて7安打1四球4三振の完投で8勝目をあげる。

 このカードはタイガースが5勝3敗。結果からみるとタイガースは名古屋を苦手としたことが昭和12年春季リーグ戦の優勝を逃す原因となったのである。

2 件のコメント:

  1. 興味深いですね。確かに今のプロ野球や学生野球でも挟まれた走者はすぐに諦めてしまう傾向が強いです。

    私が高校球児のとき(といっても30年近くですが)は挟まれた時はとにかくタッチされるなと口すっぱくして言われました。アウトにならざるおえないので時間を稼げという意味です。

    脚でかく乱するというのは身体の小さな日本人が昔から得意としてきた事ですが、それは盗塁よりも走塁の上手さからなのだと私は思っています。

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  2. 得点の少ない時代だったからこそ一つの進塁を大切にしていたのでしょう。当時のプロ選手のレベルでは肩の弱かった選手も多かったのかもしれません。

    私の好きな1980年代は大リーグではホワイティ・ハーゾク監督率いるセントルイス・カージナルスのホワイティ・ボール、日本では広島の機動力野球が席捲しましたが。

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