2010年7月7日水曜日

12年春 ジャイアンツvs阪急 7回戦

6月19日 (土) 西宮


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 1 0 0 0 0 0 0 1 ジャイアンツ 31勝10敗1分 0.756 澤村栄治
0 0 0 0 0 0 0 2 X 2 阪急       20勝18敗2分 0.526 重松通雄


勝利投手 重松通雄  5勝2敗
敗戦投手 澤村栄治 18勝3敗


二塁打 (ジ)平山 (阪)黒田、宮武
三塁打 (ジ)平山


宮武三郎、澤村栄治を打ち砕く


 阪急は前の試合で殊勲の満塁走者一掃の決勝三塁打を放った林信一郎に代えてファーストに宮武三郎を起用して三番に据え、レフト北井正雄を五番に入れる。

 ジャイアンツは3回、一死後呉波が四球で出塁、二盗の際キャッチャー倉本信護の悪送球があり呉は三塁に進む、ここで三原脩がセンターに飛球を打ち上げる、センター強肩山下好一と快足呉波の争いは呉に軍配が上がり間一髪セーフとなり三原に犠飛が記録される。
 本日の澤村栄治にはこのノーヒットであげた1点で十分のようであった。澤村は7回まで5四球を与えるも阪急打線を無安打に抑え、今季二回目、自身三度目のノーヒットノーランかというピッチングを披露する。

 しかし阪急は8回、先頭の重松通雄が四球で出塁、西村正夫が送って一死二塁、ここで二番黒田健吾が一塁線を破る二塁打を放ち遂に初安打を記録して1-1の同点としてなおも一死二塁。澤村は三番宮武と勝負、ここで宮武が左中間に二塁打を放ち2-1と逆転。ベーブ・ルースの来日がなければ澤村が進学する予定であった慶應義塾大学のかつてのスラッガーが底力を見せた一瞬である(慶應義塾大学野球部腰本寿監督は京都商業時代の澤村をコーチしており、当然澤村は慶應に進学する予定であった。腰本監督を説得して澤村の全日本入りを承諾させたのは市岡忠男とも言われているが、腰本は昭和9年秋には病気療養のため慶應野球部監督を退任することが決まっていたことから渋々了承したものと考えられる。腰本の心身が充実しており慶應監督を継続するつもりであったならばライバル早稲田の市岡の説得など通用するはずもなく、澤村は慶應義塾大学に進学していてはずであり、日本野球史は全く違った形となっていたであろう。)。


 戦前の名勝負と言えば「澤村vs景浦」であり、これは昭和11年12月9日に洲崎球場で行われた王座決定戦第一戦において景浦が澤村からスリーランホームラン(このホームランは左翼場外の海に消え“太平洋まで飛んだ”とも言われておりますが、昭和11年12月10日付け読売新聞の鈴木惣太郎の論評には「左翼ブリーチャーに飛び込む大本塁打」と記述されている。当時の洲崎球場の写真を見る限りアッパーデッキは存在しておらず(まぁ写真を見なくても想像はつきますが)、左翼スタンドに飛び込んだということである。他の記事にも「左翼観覧席に入る本塁打」と記述されており、大和球士著「真説日本野球史」昭和篇その二にも「左翼スタンドへホームラン」と記述されている。海に飛び込んだと語られるだけの存在感が景浦にあったということでしょう。)を放ったことに起因しているが、本日の澤村vs宮武も戦前を代表する名勝負と言える。この一打により、昭和12年春季リーグ戦のクライマックスへ向けてのドラマが始まることとなったからである。


 澤村とは対照的な下手投げの重松通雄は、ジャイアンツ打線に6四死球を許すも4安打に抑えて完投で5勝目。奪三振ゼロの記録が重松の投球を物語っている。重松はここにきて二試合連続完投勝利、本日の勝利が日本野球史上重要な意味を持つことになるとは本人も気付いていないでしょう。一方澤村は阪急打線を2安打6四球7三振に抑えるも2安打を8回に集められて5月22日以来の敗戦、自身の連勝を6でストップさせる。


 ジャイアンツは8連勝でストップ、この試合の14分後に上井草でタイガースが勝ったため、0.5ゲーム差で繰り広げられていたつばぜり合いは1.5ゲーム差に広がることとなった。

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