2013年1月27日日曜日

発見 その2



 昨日神保町で見つけた写真はもう一枚あります。こちらは明治39年に早稲田大学から押川清と山脇正治が宇都宮中学のコーチとして招かれた時の集合写真です。


 押川清は1959年の第一回野球殿堂入りのメンバーの一人であり、(財)野球体育博物館編「野球殿堂」に記載されている紹介文によると「1906年(明治39年)早慶戦中断時の早大主将」なのでこちらも時代考証はどんぴしゃです。押川清の後年の写真は良く見かけますので確認してみてください。


 山脇正治は殿堂入りしていないので一般的ではないかもしれません。写真を見る機会もあまりないと思われます。昭和14年6月14日付け読売新聞に「イーグルスでは今回チーム取締役の山脇正治氏を総監督とし森監督と共にベンチを強化する事となった。」という記事が写真入りで報道されています。当ブログでは新聞記事及び書籍の写真を掲載することは特別の事情が無い限り行っておりませんが、本日はその“特別の事情”に該当すると判断して読売新聞の山脇正治氏の写真を掲載させていただきます。


 押川清は盟友の河野安通志、橋戸頑鉄と共に日本最初のプロ野球チームである日本運動協会を設立し、昭和11年以降のプロ野球でも河野安通志と共にイーグルスを設立して球団社長に就任しています。イーグルスは創設時の森茂雄監督、後任の沢東洋男監督、杉田屋守主将など、首脳陣の河野、押川、山脇と共に早稲田閥で形成されていることは何度かご紹介しているとおりです。なお、橋戸頑鉄は昭和11年に亡くなっていますので12年のイーグルス創設には加わることはできませんでした。生きていれば当然行動を共にしていたでしょう。但し都市対抗に「橋戸賞」の名を残して今日に至っています。




*明治39年7月に早稲田大学の押川清、山脇正治がコーチとして宇都宮中学を訪れた際の集合写真。





*髭の二人は左から宇都宮中学の鈴木先生と香川部長、その右で腕を組んでいるのが押川清、更にその右が山脇正治です。
 なお、明治41年の写真の裏書では香川部長は校長に、鈴木先生は野球部長にそれぞれ昇格されているようです。
 生徒のユニフォームも明治39年は「UMS」、明治41年は「UTSUNOMIYA」に変わっています。「UMS」は「UTSUNOMIYA MIDDLE SCHOOL」の略でしょうか。





*このパネルには刻印があります。「UTSUNOMIYA」の文字が確認できます。宇都宮の写真館が撮影したものでしょう。





*昭和14年6月14日付け読売新聞に掲載された山脇正治の写真です。この時54歳頃になりますので明治39年に宇都宮中学を訪れたのは21歳頃のこととなります。







               *パネルの裏の全文です。







                  *日付けは明治39年7月21日と特定できます。






*「C.F.  Capt 押川氏」は「センター、キャプテン押川清」のことです。「C 山脇氏」は「キャッチャー山脇正治」のことです。















 

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