2013年1月26日土曜日

発見



 本日神保町の古本屋で貴重な資料を見つけました。満州リーグの資料を探しに行ったところ、店主が棚の奥から出してきてくれたのですが、もう一つ集合写真を持っていました。「それは何ですか?」「宇都宮の野球の写真ですよ」。会話はそれだけでしたが宇都宮ならもしかしたら宇都宮中学の写真ではないか、であれば青井鉞男か君島一郎が写っているかもしれないと考えて「ちょっと見せてもらっていいですか」ということで見せてもらいました。


 予想は大当たり、写真が貼り付けられたパネルの裏に「君島氏」と書かれているではないですか。写真の顔も「日本野球創世記」に掲載されている君島一郎の写真と同じです。「明治41年7月撮影」と書かれていますのでお次は時代考証です。同店にあった「日本野球創世記」をお借りして君島一郎氏のプロフィールを確認すると「1887年4月生まれ。1905年9月、第一高等学校入学。1912年7月、東京帝国大学法科大学経済学科卒業」とあります。明治41年は1908年なので君島一郎氏が21歳の時になります。写真を見ると宇都宮中学の生徒はユニフォームを来ていますが君島一郎はユニフォーム姿ではありません。裏には選手名は呼び捨てになっていますが君島一郎は「君島氏」と書かれています。


 すなわち、宇都宮中学卒業後、旧制一高時代に母校にOBとしてコーチに出掛けた時の集合写真に間違いありません。プロフィールからも分かるとおり当時は9月入学、7月卒業です。1905(明治38)年9月に宇都宮中学から旧制一高に入学した君島一郎は、一高野球部で活躍して1908(明治41)年7月に卒業し、同年9月に東京帝国大学に進む前に帰省して母校のコーチに出掛けたものと考えられます。


 君島一郎氏は「日本野球創世記」を著した功績が認められて2009年に特別表彰で野球殿堂入りされています。私が日米野球史研究の道に迷い込んだきっかけが中学時代に購入した「日本野球創世記」と出会ったことにあるのは何度もお伝えしているところです。その著者の一高時代の写真を入手できるとは、これがあるから神保町古本屋巡りはやめられません。そもそも当ブログで解読している一リーグ時代のスコアブックも神保町の古本屋の棚に置いてあったものを偶然見つけたからです。“キッチン南海”のカツカレーを食べに行くのも目的ではありますが(笑)。



 最後に「日本野球創世記」の“あとがき”をご紹介します。「・・・明治40年、41年の一高野球生活を振り返ってみて、よくもあんなにムキになれたものだとも思い、われながらよくやったとも思う。面白かったの楽しかったのなどということは全くなく、ただ苦しかったの連続であった。しかし今にして思う。からだの面でも心の面でもプラスになったと感ずることは多々あるが、マイナスになったと思うものは皆無である。・・・」


 君島一郎氏は東大卒業後、日本銀行に就職し、朝鮮銀行副総裁で終戦を迎えたことから公職を追放されます。しかしこれが野球史研究にはプラスに作用したのではないでしょうか。仕事だけに汲々とすることなく、趣味の世界にも力を注ぐことができたことが「日本野球創世記」を著すという偉業につながったのではないでしょうか。


 世間では体罰がどうのこうのと騒いでいますが、スポーツとは楽しい事ばかりではなく試練の連続です。野球の神髄とは、プロ野球でもなく数字の羅列でもなく、学生野球にこそあります。筆者も神奈川軟式、東京六大学準硬式とは言え7年間を体育会で過ごしてきました。矢張り今にして思うと「からだの面でも心の面でもプラスになったと感ずることは多々あるが、マイナスになったと思うものは皆無」であります。スポーツに打ち込めるのは学生時代の特権でもあります。現役諸君には貴重な時間を無駄にすることなく励んでもらいたいと思います。








     *本日神保町の古本屋で“発見”した宇都宮中学野球部の集合写真。











     *前列左のユニフォーム姿ではない帽子を被った方が君島一郎氏です。













*「日本野球創世記」を持っていらっしゃる方は同著に掲載されている写真と比べてみてください。本人であることが確認できると思います。









*選手は呼び捨てになっていますが「君島氏」となっていますのでOBとしてコーチに出掛けた時のものであると考えられます。












       *明治41年7月撮影と書かれていますので年代もどんぴしゃとなります。













 

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