8月13日 (日) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 計
0 0 0 1 0 0 0 0 1 ジャイアンツ 39勝16敗1分 0.709 中尾輝三
0 0 3 0 0 3 0 X 6 セネタース 28勝25敗3分 0.528 野口二郎
勝利投手 野口二郎 18勝13敗
敗戦投手 中尾輝三 5勝4敗
二塁打 (ジ)リベラ
本塁打 (セ)佐藤 1号
佐藤武夫、決勝スリーラン
セネタースは3回、苅田久徳、横沢七郎が連続して一邪飛に倒れるが尾茂田叶が四球を選んで出塁、尾茂田の二盗の際に中尾輝三の投球がワイルドピッチとなって尾茂田は一気に三塁に進む。野口二郎も四球を選び二盗に成功して二死二三塁、ここで佐藤武夫が左翼スタンドにスリーランホームランを叩き込んで3点を先制する。
ジャイアンツは4回、一死後水原茂が中前打で出塁、千葉茂の二ゴロはセカンド苅田からショート柳鶴震に送球されるがこれを柳が落球、中島治康の中前打で一死満塁、川上哲治の右犠飛で1-3とする。
セネタースは6回、柳、浅岡三郎が連続四球で無死一二塁、村松長太郎、織辺由三が連続三振で二死一二塁、続く苅田は四球、三振か四球という中尾のピッチングで二死満塁とし、横沢が右中間にタイムリーを放って5-1、尾茂田の二塁への内野安打で苅田も還って6-1とする。
5回ころから雲行きが怪しくなっていたが9回から雨脚が速くなり8回コールドでセネタースがジャイアンツを倒す。野口二郎は7安打2四球5三振1失点、自責点ゼロの完投で18勝目をあげる。中尾輝三も7回を完投するが5安打9四球7三振のピッチングであった。
ジャイアンツは吉原正喜の欠場が痛く、本日も永澤富士雄がマスクを被ったがセネタースは5盗塁と走られっぱなしであった。
決勝スリーランを放った佐藤武夫は岡崎中学(現・愛知県立岡崎高等学校)の出身。進学校のためか「人生劇場」の尾崎士郎やシンセサイザー奏者の富田勲などの文化人を多く輩出しているがプロ野球選手は近藤貞雄くらいの模様である。因みに「人生劇場」は都新聞に連載されていたので尾崎士郎と大和球士は接点があったかもしれない。佐藤武夫は昭和11年にタイガースに入団するが小川年安や門前真佐人がいたため試合に出られず12年にイーグルスに移ってレギュラーとなる。ところが日本に戻ってきたバッキー・ハリスが河野安通志を慕ってイーグルスに入ってきたため出番が無くなりセネタースに移って正捕手の座を得る。進学校の出身だけあって、自分がどこに身を置くのが有利かを考えることのできる頭脳を持っていたようである。
長打力では戦前屈指のものがあり、戦前のみの在籍としては珍しく通算二桁本塁打となる12本を記録することとなる。本日の決勝スリーランは佐藤自身通算3本目の本塁打となる。佐藤は昭和11年~19年までプロ野球に在籍するという珍しい存在でもある。すなわち、タイガース、イーグルス、セネタース、翼、大洋、西鉄、巨人に在籍した(セネタース、翼、大洋、西鉄はチーム名変更や合併によるもの)。何か召集されない理由があったのかは定かではない。他の例は坪内道則くらいではないでしょうか。坪内の場合は徴兵検査の直前に守備で水谷則一とぶつかり脱臼していて「第二乙種合格」だったためのようです。因みに坪内は昭和21年に前述の近藤貞雄が進駐軍のジープにはねられた時、偶然松山の同じ旅館に投宿していたと坪内道則著「風雪の中の野球半世紀」に書かれています。若林忠志も徴兵されていませんがこれは日系二世であったためと理由ははっきりしています。但し日系二世でもキヨ野上清光のように軍隊に捕られて苦労させられた事例もあります。野上は軍隊時代の厳しい苦労を活かして戦後は事業で大成功を収めています。
この試合で実況中継通算1,000試合となりました。昭和12年春季リーグ戦224試合、12年秋195試合、無効試合1試合、12年日本選手権6試合、13年春140試合、13年秋180試合、13年日本選手権4試合で合計750試合、今季250試合目がこの試合となります。
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