横浜平和公園球場を我々は平和球場と呼んでいました。「我々」と言うのは神奈川県高校軟式球児のことです。私の在学中は夏の神奈川県高校軟式予選のみ平和球場で行われました。秋の大会と春の大会は保土ヶ谷軟式球場か各校のグラウンドの持ち回りです。保土ヶ谷軟式球場は一応野球場ですが草野球用のグラウンドですので四面とってあり外野は交錯します。これなら各校のグラウンドでやった方がましでした。
ちょうど原辰徳の時代でした。東海大相模の硬式の試合が平和球場で行われたことがありましたがあまりの観衆に球場が倒壊の危機に瀕し、その後東海大相模硬式野球部の試合は川崎球場で行われることとなりました。
私の時代の直後に取り壊されて現在の横浜スタジアムに建て替えられました。とにかく今にも崩れ落ちそうだった印象しか残っていませんが、夏の予選だけで8試合を行いました。一年の時は1回戦コールド負け。二年時は優勝したので4回戦い、三年時はベスト4に行きましたので3回戦いました。一年の時は当然ベンチでしたが二年で優勝した時は五番ライト、三年時は四番キャッチャーをやっていました。神奈川軟式の参加校は30校ほどです。
根岸線(京浜東北線とつながっているので京浜東北線と誤解されている方が多いようですが根岸線です。)関内駅近くの横浜公園内に位置し、道路を一本挟んで中華街、少し歩けば山下公園に出ます。
球場の歴史は古く、日本野球史とも密接な関係にあります。君島一郎著「日本野球創世記」によると「明治29年5月23日に行われた第1回国際試合・・・これが我が国における対外国人試合の最初である。」とされており、この試合が横浜平和公園球場で行われた訳です。この頃はまだクリケット球場だったようです。この試合で青井鉞男をエースとする旧制一高が29対4で米軍を破りました。明治28年にも一高が米軍に試合を申し込みましたが相手にされず、青井鉞男が横浜に赴き米軍との試合を承諾させたものです。第2回戦も横浜で行われ、一高が32対9で米軍を降します。第3回戦は軍艦デトロイトから挑戦状が来て一高グラウンドで行われましたが22対6で返り討ちにします。第4回戦は独立記念日の7月4日に横浜で行われ、米軍が14対12で雪辱を遂げました。米軍は戦艦オリンピアの水兵チャーチを助っ人として連れてきます。チャーチは本国のプロ野球選手でした。その他にもキャッチャーにモナハン、三塁手にスタンレーという学生時代の野球経験者を加えた末の辛勝でした。この試合に負けた一高は横須賀で予定されていた慰労会をキャンセルして練習場に向かったと伝えられています。この四連戦までは一高ナインはキャッチャー以外は素手で硬球を捕球していましたが、これ以降ミット又はグローブを使用することとなり近代野球に進化していくこととなります。
終戦直後に米軍に接収されて「ゲーリッグ球場」と呼ばれることとなります。私の高校時代には「平和球場」が別名「ゲーリッグ球場」であることは知っていましたが、「平和球場」を「ゲーリッグ球場」と呼ぶ人間は神奈川高校軟式球界にはいませんでした。
昭和23年8月17日にプロ野球初のナイターが行われたことで知られていますが、私の高校時代には照明設備は無かったと思います。球場自体が倒壊寸前だった訳ですから照明設備などはとっくの昔に撤去されていたのでしょう。
青井鉞男は昭和24年、第1回野球殿堂に正力松太郎、新橋アスレチック倶楽部の平岡凞、早稲田野球部の父・阿部磯雄、押川清、橋戸信(頑鉄)、久慈次郎、小野三千麿、澤村栄治と共に選出されています。因みにアメリカの殿堂(Hall of Fame)第一号はタイ・カッブ、ベーブ・ルース、ホーナス・ワグナー、クリスティ・マシューソン、ウォルター・ジョンソンの五人です。
君島一郎も「日本野球創世記」を著した功績が認められて平成21年に野球殿堂入りしています。因みに私が日米野球史研究の道に迷い込んだのは中学時代に「日本野球創世記」を読んだためであることはこれまでもお伝えしているとおりです。
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