8月15日 (火) 後楽園
1 2 3 4 5 計
0 1 0 0 0 1 ジャイアンツ 40勝16敗1分 0.714 スタルヒン
0 0 0 0 0 0 阪急 39勝19敗 0.672 石田光彦
勝利投手 スタルヒン 26勝8敗
敗戦投手 石田光彦 7勝4敗
降雨コールド
阪急は四連敗から盛り返してきており首位ジャイアンツとは1ゲーム差での直接対決となった。今日勝ってもゲーム差無しで勝率では下回るが対ジャイアンツ戦八連敗は免れたいところ。
ジャイアンツは吉原正喜が戦列に復帰。これまで突指による欠場とお伝えしてきましたが翌日の読売新聞によると「右手小指を脱臼」とのことです。同じことでしょうが。
ジャイアンツは2回、先頭の中島治康が中前打で出塁、川上哲治の一ゴロでランナーが入れ替わり川上が二盗に成功、平山菊二の三ゴロが野選を誘い、平山が二盗を決めて一死二三塁、アチラノ・リベラ(アデラーノ・リベラ)が左前にタイムリーを放って1点を先制する。
阪急は2回に放った上田藤夫の左前打1本のみ。
ジャイアンツは6回、先頭の水原茂が中前打で出塁、千葉茂は右飛に倒れるが中島が中前打、川上三ゴロ、平山二ゴロでスリーアウトチェンジ。
阪急は6回裏、先頭のフランク山田伝の二ゴロをセカンド千葉がエラー、浅野勝三郎が捕前に送りバントを決めて一死二塁、ここでジャイアンツはファーストを川上から永澤富士雄に交代する。黒田健吾が四球を選んで一死一二塁、ここで雷鳴とともに豪雨が襲いかかり試合は中断、翌日の読売新聞によると規程の30分後には晴れていたがグラウンドコンディションが悪く降雨コールドが宣告され、公式記録に残るのは5回の両軍の攻撃までとなり、水原、中島のヒットや千葉のエラーは公式記録からは除外された。
藤本定義監督が川上と永澤を交代させたのは遅延行為ではなかったかとの疑問が残る。1点リードで雨脚が強くなってきて5回を終了していれば勝っている方としては試合進行を遅らせたくなるのは人情というもの。藤本定義の自伝のタイトルは「覇者の謀略」。現代では遅延行為と非難されるかもしれないが当時はこの程度のことは単なる謀(はかりごと)だったのではないでしょうか。
1988年の「10.19」でもロッテの有藤監督が執拗に抗議をして引分けに持ち込もうとしたことがありました。第一試合は以前勤めていた会社で夕方に始まったところだけ見ていました。今日が決戦だという事を知っていましたので。残業が終わって家に帰ったらまだやっていました。ニュースステーションの時間に食い込んで、久米宏が「この中継を辞める訳にはいきません!」と叫んでいました。因みに余談ではありますが、星稜高校vs蓑島高校の延長18回の試合の時はちょうど合宿に向かう時でバスに乗った時が試合開始の時間でした。バスでは寝ていましたが約3時間後に静岡の宿に着いたらまだやっていました。みんなでテレビで見ていましたが、落球の後の同点ホームランも堅田が上野に打たれたショートオーバーのサヨナラヒットもリアルタイムで見ることができました。星稜の小柄な左腕エース堅田外司昭は現在甲子園で審判を務めています。延長16回に一塁ファウルフライを捕る直前に転んだ加藤一塁手も野球の指導者の道に進んでいるようです。この試合に出場した選手から4人がプロに進みましたが、成功したのは星稜の音重鎮だけです。蓑島の嶋田も阪神の準レギュラーにはなりなりましたが。石井は典型的なアマチュアのトップ選手で西武では中継ぎに終わりました。
スタルヒンは5回を1安打1四球3三振無失点で26勝目をあげる。コールドゲームでも完封試合として記録されますが、昭和14年当時はどうであったのか。暫定措置として今季六度目の完封勝利としておきます。
阪急はジャイアンツに八連敗、相手投手は全てスタルヒンでありこれではジャイアンツの上に行くのは無理か。
なお、翌日の読売新聞によると、取り消しにはなりましたが6回のフランク山田伝の二ゴロを千葉がエラーした場面を「山田二塁左を抜き安打に出て」と伝えています。当時は各新聞社が独自にスコアを付けて記事にしていました。有名なところでは澤村栄治の1回目の無安打無得点試合で某新聞社がエラーをヒットと判定して「1安打ピッチング」と報じたことがありました。
*スタルヒンは5回を1安打完封で26勝目をあげる。
*この日の「雑記」欄。
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