2011年5月28日土曜日

13年秋 名古屋vsセネタース 4回戦

11月3日 (木) 後楽園


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 1 0 0 0 0 0 1 2 名古屋    16勝11敗3分 0.593 西沢道夫
3 0 0 0 0 0 0 0 X 3 セネタース 16勝16敗1分 0.500 金子裕


勝利投手 金子裕     8勝7敗
敗戦投手 西沢道夫 3勝3敗


二塁打 (セ)今岡
本塁打 (名)三浦 1号 (セ)遠藤 4号


先手必勝


 セネタースは初回、一死後今岡謙次郎がツーワンからの4球目を左翼線に二塁打、北浦三男の三ゴロをサード倉本信護がエラーして一死一三塁、北浦が二盗を決めて一死二三塁、尾茂田叶の三ゴロで今岡がホームを突くが倉本からのバックホームに刺されて二死一三塁、ここで遠藤忠二郎が初球を左翼スタンドに第4号スリーランホームラン、3点を先制する。

 名古屋は3回、この回先頭の三浦敏一がワンワンからの3球目を左翼スタンドにホームランして1-3とする。

  名古屋は9回、二死から三浦がストレートの四球を選んで出塁、西沢道夫に代わる代打繁里栄もワンスリーから四球を選んで二死一二塁、トップに返り戒能朶一が左前にタイムリーを放って2-3とするが最後は石田政良が三振に倒れてセネタースが3A対2で逃げ切る。セネタースは前日の阪急戦でも初回の4点を守りきったがこの日もスミ三を守り抜いての勝利となった。

 金子裕は5安打5四球1死球5三振の完投で8勝目をあげる。156球を投げておりコントロールに苦しんだように見えるが翌日の読売新聞宇野庄治記者の論評は「この日の金子は絶妙の制球力を発揮して崩れんとして崩れず最後までプレートを健守した手腕はなかなか味わうべきものがあった。」と書かれている。


 この時代は四球が多くピッチャーのコントロールが悪いように見えますが、現代と比較してストライゾーンの違いにも起因しているようです。杉浦清著「ユニフォームは知っている」(昭和30年7月初版)によると「審判のことども」の項で「当時はコースにふれても、ストライクを宣告しなかった。その人にもよるが、ベースの二角を通過しなければ、あるいはボールの中心がコースにかかっていなければ、ストライクを宣告しないことになっていたらしい。」「・・・ゆえに選手たちはなるべくボールを選ぶことに集中し・・・いわば消極的な打法で、日本の打撃がアメリカの打撃に劣るのは一に体格のゆえもあるがこの消極的過程を経たことも、見逃しできぬことの一つだとわたくしは思っている。」とのこと。

 現代よりも左右共にボール半個分ストライクゾーンが狭かったようです。


 杉浦清は中京商業の甲子園三連覇時の遊撃手、明治大学でも東京六大学で四連覇している。頭脳も優秀で高等文官試験(現在のⅠ種(キャリア)試験)を受ける予定であったが義を重んじて高級官僚への道をかなぐり捨てて海草中学のコーチを引き受け、それまで甲子園で力を発揮することができなかった嶋清一を指導して準決勝、決勝連続ノーヒットノーランを達成する潜在能力を引き出した。プロ野球に進んだのは30歳を過ぎた戦後の事となるが立派な成績を残している。日本球界が生んだ最高級の人物の一人である。











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