2011年5月20日金曜日

13年秋 ジャイアンツvsイーグルス 4回戦

10月29日 (土) 後楽園


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
1 0 0 0 0 3 0 0 0 4 ジャイアンツ 21勝6敗1分   スタルヒン
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 イーグルス   10勝13敗3分 亀田忠 古川正男


勝利投手 スタルヒン 13勝2敗
敗戦投手 亀田忠        3勝8敗


スタルヒン、今季六度目の完封


 ジャイアンツは初回、一死後水原茂が左前打で出塁、千葉茂右前打で一死一二塁、中島治康はストレートの四球を選んで無死満塁、中島は少々のボールであれば打っていくのでここは勝負を避けた可能性が高い。伊藤健太郎の三ゴロで水原は本封されて二死満塁、川上哲治がワンスリーから四球を選んで1点を先制する。続く白石敏男の記録は「1.6-3」でスリーアウトとなっているのでピッチャー亀田忠を強襲した当りをショート山田潔がバックアップして一塁に刺したものであろう。因みに山田潔は今季終了時点で遊撃手としては守備率第1位を記録することになります。

 ジャイアンツは6回、この回先頭の伊藤が四球で出塁、川上の投ゴロを併殺を焦った亀田が二塁に悪送球して無死一二塁、白石の送りバントは亀田からサード漆原進に送られて伊藤が三封、しかし吉原正喜の三ゴロを漆原が二塁に悪送球する間に川上が還って2-0としてなお一死二三塁、スタルヒンの中前タイムリーで3-0、トップに返り三原脩の三ゴロの間に三走吉原も還って4-0とする。

 イーグルスは1回、2回と三者凡退、3回一死から山田が遊失に生きるが漆原、中根之は連続遊飛に倒れる。4回二死から亀田が右前に初ヒットを放つが中河美芳は二飛に倒れてチェンジ。5回は三者凡退、6回は先頭の漆原が三塁への内野安打で出塁するが後続無く漆原は一塁に釘付け。7回、8回と三者凡退でここまで2安打で二塁を踏むもの無し。

 イーグルスは9回、先頭の中根がストレートの四球を選んで出塁、太田健一の投ゴロで中根が二封されてランナーが入れ替わり、ハリスの遊ゴロで太田が二封されて又もランナーが入れ替わり二死一塁。ここで亀田が右翼線にヒットを放ちハリスが二塁を回りかけるがこれを見たライト中島から二塁ベースカバーのショート白石に送球されてハリスは戻りきれずタッチアウトとなって試合終了のサイレンが高々と鳴り響く。

 最終回の亀田の当りにはヒットが記録されているので、ハリスは二塁ベースタッチ後オーバーランしたところに中島からの送球がきてタッチアウトとなったものでライトゴロにはならない。したがってハリスは二塁を踏んだことになるが、スタルヒンの3安打完封は実質二塁を踏ましめなかったものであり、翌日の読売新聞も「走者を二塁に生かすこと絶無」という書きぶりとなっている。スタルヒンは3安打1四球4三振、97球で今季六度目の完封を飾った。ここまで8試合連続ヒッとを継続中の中島治康は3打数無安打、打率は119打数45安打で3割7分8厘に落とした。

 イーグルスは7回から古川正男がリリーフのマウンドに上がり3回を1安打無四球1三振無失点に抑えた。イーグルス投手陣は9月23日のセネタース2回戦で中河美芳が完投勝ちして以降、10月26日の金鯱3回戦で望月潤一が完投負けするまで、16試合連続して先発投手が完投を続けてきた。この間7勝8敗1分。中河美芳が4勝2敗1分、亀田忠が2勝5敗、望月潤一が1勝1敗である。亀田は連投が2回と中一日が1回、中河は連投は無く中一日が2回である。


 以前にも書いたことがあるかもしれませんが、当ブログではこれは河野安通志の考え方が反映されているのではないかと推測しています。早稲田の河野安通志は慶應の桜井弥一郎と共に全盛期の旧制一高を破り、一高時代から早慶時代へと大きく時代の舵を切りました。現在まで続く早慶戦は、河野と桜井の投げ合いを起源としています。早稲田大学の第1回アメリカ遠征で投げまくり、「アイアンコーノ」と呼ばれた鉄腕を誇ります。日本初のプロ野球チーム日本運動協会を立ち上げた際も山本栄一郎(現=昭和13年当時・ジャイアンツ)が投げまくり、関東大震災後に引き継がれた宝塚運動協会でも大貫賢(現=昭和13年当時・イーグルス)が投げまくることとなります。昭和11年の名古屋を一年で飛び出し、理想のプロ野球チームとしてイーグルスを立ち上げ、昭和12年は畑福俊英が投げまくり、今年は16戦連続完投の記録を作りました。エースは一度マウンドに上がったら試合終了までマウンドを死守するものとの信念があったのではないでしょうか。

 河野安通志は監督ではありませんが、早稲田の後輩となる森茂雄監督を通じて河野の考え方がチームに浸透していたのではないでしょうか。河野安通志と市岡忠男は終生不仲であった訳ですが、この原因は市岡が早稲田の監督時代、先輩の河野が現場に介入してきたことを嫌ったことに起因していると言われています。純粋な理想主義者にしてリベラリストの河野と厳格な官僚主義の市岡は水と油であったと言われています。森茂雄は景浦将などが慕っていた人格者であり、河野の考え方にも同調していたのではないでしょうか。河野が名古屋からイーグルスに移ると名古屋からバッキー・ハリス、サム高橋吉雄、中根之、野村実などイーグルスの主力を形成することとなるメンバーが河野と行動を共にしました。タイガースを理不尽な形で解雇されてイーグルス監督に就任した森茂雄にも小島利男、佐藤武夫などが同調します。松山商業の後輩となる景浦将もイーグルスに移りたかった訳ですが、流石にタイガースもこれだけは引き留めました。景浦のイーグルス移籍が実現していたら景浦の本領が発揮されてイーグルスが戦前最強チームとなっていたことは間違いないでしょう。











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