2012年5月4日金曜日

14年 阪急vsタイガース 10回戦


10月29日 (日) 甲子園


1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
0 0 0 0 0 0 0 0 1  1 阪急          56勝30敗2分 0.651 高橋敏
1 0 0 1 0 0 0 0 X  2 タイガース 59勝26敗3分 0.694 若林忠志


勝利投手 若林忠志 26勝5敗
敗戦投手 高橋敏    16勝8敗


二塁打 (阪)日比野 (タ)富松、松木


ジャイアンツを追撃
 
 いよいよ10月最後の試合。阪急は残り9試合でジャイアンツと4ゲーム差で若干ながら可能性は残っている。タイガースは残り9試合で1.5ゲーム差なので現実味を帯びてきた。


 タイガースは初回、一死後ジミー堀尾文人が三塁に内野安打、景浦将は中飛に倒れるが堀尾が二盗を決めて二死二塁、門前真佐人の当りはピッチャーを強襲して中前に抜け堀尾が還って1点を先制する。


 タイガースは4回、一死後岡田宗芳が三塁に内野安打、更に二盗を決めて一死二塁、若林忠志が左前にタイムリーを放って2-0とする。


 阪急は9回、先頭の上田藤夫が右前打から二盗を決めて無死二塁、山下好一は三振、黒田健吾は三ゴロに倒れるが日比野武が右中間に二塁打を放って1-2、しかし伊東甚吉に代わる代打新富卯三郎は遊飛に倒れてタイガースが逃げ切る。


 若林忠志は6安打2四球2三振の完投で26勝目をあげる。阪急の6安打は一番浅野勝三郎が2本、三番上田藤夫が2本、六番日比野武が2本で若林は徹底的に阪急打線を分断して連打を許さない。3回一死後浅野に右前打を許すと続くフランク山田伝は遊ゴロ併殺、得意のシンカーで打ち取っているのであろう。当ブログで再三お伝えしている「打線を切る」ピッチングを本日も披露した。翌日の読売新聞は「打者が気負って打つと見れば軽く力を抜いて鋭鋒を殺し、打たずと見ればズバリと大胆なストライクを投込んで料理した。」と伝えている。


 タイガースは秋季シリーズ16勝7敗1分、6割9分6厘となりジャイアンツの15勝7敗2分、6割8分2厘を抜いてトップに立ち、シーズン通算でもジャイアンツに1ゲーム差と迫ってきた。



  阪急の最後の打者となった新富卯三郎は10月27日の緊急理事会で登録申請が承認された。新富は小倉工業で5度甲子園に出場し、卒業後門司鉄道局では四番を務め、昭和9年の全日本軍に参加し、そのまま巨人に入って昭和10年の第1回アメリカ遠征に参加している。昭和11年に公式戦に出場することなく応召し、28日付け読売新聞によると「今春2月退営後は母校小倉工業のコーチを務めていた」とのこと。なお、門司鉄道局は1919年~20年と1950年~87年は「門司鉄道管理局」ですが1920年~1950年は「門司鉄道局」なので新富の在籍時は門司鉄道局となります。


 永田陽一著「東京ジャイアンツ北米大陸遠征記」によると「三宅監督は新富のバットを極端に短く持って当てる打法をはじめて見たときから、『もっとバットを振りきり給え。フォロースルーのない打法はほんものではない』とやかましくアドバイスしていた。新富は渡米前の静岡キャンプから打撃フォーム改造に取り組んできたが、その成果がやっと芽を出してきた。・・・打線の中軸に座り長打力を発揮した。三宅は後年、『彼の打撃術は、日本が生んだ打者中の、最も優れた人々の中の一人であると思う』と回想している。」とのこと。新富はこの遠征で四番を打っているが、不思議なことに巨人軍歴代四番打者にはカウントされていない。






            *若林忠志は芸術的ピッチングで26勝目をあげる。







                       *新富卯三郎が公式戦初出場。








*昭和10年第1回アメリカ遠征時の新富卯三郎のサイン。判読は難しいが読売新聞の付録に残されている新富のサインには似ていますので新富のものと考えられます。左は苅田。





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