2012年5月12日土曜日

幻の大先輩 その二



 その一から続く。

 昭和11年にセネタースに所属した佐藤喜久雄は「日本職業野球聯盟公報」第二号(昭和11年5月25日発行)の「登録されたる監督と選手」欄に「慶應商工出身、大正6年10月19日生」と記載されています。1917年生まれで1936年にプロ入りしていますので佐藤喜久雄は慶應商工から慶應大学には進まずにプロの世界に飛び込んだようです。



 佐藤喜久雄は昭和11年以降にプロ野球に所属した選手としては最初に亡くなられた選手のようです。「日本職業野球聯盟公報」第五号(昭和11年8月15日発行)の「選手監督 異動」欄に「登録抹消 佐藤喜久雄(慶應商工出身) 7月29日付を以て死亡の届出あり選手登録を抹消す」と記載されています。


 同号には横沢三郎監督による「逝ける佐藤選手」というコメントが掲載されています。「佐藤喜久雄君は風邪から肺炎になり脳炎を併発して7月29日遂に逝きました。佐藤君は性質温厚篤実真面目一点張の青年でした。慶應商工卒業後川崎コロンビヤチームの左翼手として活躍し将来を嘱望されていましたが、野球に生き野球に一生を捧げんとする本人の希望により昭和11年東京野球協会セネタース結成と同時に入社し・・・佐藤君は病床にあっても常に野球のことを口にしセネタースを思い続けて死んでいったとの御尊父の御話でした。たとえ身は病床にあってもチームを思い聯盟を忘れず遂に永眠した同君の死は我々一同の手本ともすべきであります。・・・」


 昭和11年7月15日から山本球場で行われた名古屋大会の準優勝戦(7月18日)のセネタースvsタイガース戦で六番レフトで先発出場した佐藤喜久雄は1打数1三振1失策を記録して第二打席では大貫賢を代打に送られて引っ込んでいます。この試合まで佐藤喜久雄は五番~七番でほぼフル出場する主力選手でした。この大会は酷暑の中で行われ、日射病が続出したことで知られています。松木謙治郎著「タイガースのおいたち」にも「私は過去ユニフォーム生活は30年以上になるが、この大会程暑さの酷かったことは経験がない。多くの選手は日射病のためか、ガタガタふるえて鳥肌が立つ状態だった。」「名古屋軍の岩田内野手(早大出)など、この期間中日射病に倒れ、病院にかつぎ込まれるほどの猛暑だった。」と記されています。佐藤喜久雄も日射病に倒れた可能性があります。


 佐藤喜久雄は世界初の永久欠番選手であった可能性が高い。佐藤喜久雄の背番号「16」はその後昭和18年まで続くセネタース、翼、大洋、西鉄の系譜で誰も付けていません。昭和17年まで苅田久徳が付けていた「15」は18年に苅田が大和に移った際、北浦三男が「15」を付けているにもかかわらずです。「17」に至っては昭和11年と12年が北浦三男、13年が磯野政次、14年と15年は柳鶴震、16年と17年が古谷倉之助と途切れることなく目まぐるしく変わっているにもかかわらずです。入営した選手の背番号を空けておいて帰還後に再び付ける事例はよく見られますが、死去した選手の背番号を空けておくというのは「永久欠番」に他ならない。山本球場で日射病に倒れた佐藤喜久雄を偲んで「16」はその後誰も付けなかったという推測はかなり高い確率で成り立つのではないでしょうか。一般には1934年のルー・ゲーリッグの「4」が永久欠番第一号、日本では1947年の黒澤俊夫の「4」と澤村栄治の「14」が第一号と言われていますが、実際は佐藤喜久雄の「16」番が永久欠番第一号であったと言えます。・・・「その三」に続く。
 

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