2012年5月12日土曜日

幻の大先輩 その一


 昭和14年11月5日の南海vsセネタース11回戦で、セネタース7回の守備からサードに入って9回に四球で出塁して3点目のホームを踏んだ山本愛一郎は各種資料によると慶應普通部出身となっています。したがって山本愛一郎は筆者の大先輩ということになります。



 現在日吉にある慶應普通部は現代の学制における中学校ですが、山本が卒業した慶應普通部は旧制中学です。旧・慶應普通部は第2回全国中等学校優勝野球大会に東京府代表として出場し、優勝しています。慶應商工も東京代表として4度甲子園に出場しています。旧・慶應普通部と慶應商工は現在日吉にある慶應義塾高等学校のルーツなので、慶應高校野球部史においても第2回夏の甲子園優勝校ということになっています(第2回大会は豊中球場で行われましたので甲子園ではありませんが)。


 慶應高校野球部は2008年の第90回夏の甲子園に北神奈川代表として46年ぶり17回目の出場を飾ってベスト8に進出しましたが、出場回数の17回には旧・慶應普通部時代の7回、慶應商工時代の4回、戦後の東京都代表としての慶應高校時代の2回の出場回数が全てカウントされており、日吉に移転後昭和28、33、37年に神奈川県代表として出場した3回を加えて16回の出場とカウントされ、2008年に46年ぶり17回目の出場とされています。


 高校時代は全く勉強していなかった筆者でも大学には進めるくらいなので、在校生はほとんど大学に進みます。山本愛一郎は慶應大学には進まずプロに入ったのでしょうか。


 山本愛一郎は大正5(1916)年生まれなのでプロ入りした昭和14(1939)年は23歳の年ですから年齢的には大学卒業か中退の可能性があります。慶應商工から慶應大学に進んだことが確認できる横沢七郎も資料によっては慶應商工出身と書かれていますので、山本愛一郎も慶應大学経由で昭和14年にプロ入りしたけど資料には慶應普通部出身と書かれている可能性があります。因みに大和球士著「真説 日本野球史」に書かれている昭和13年の慶應大学野球部のスタメンには山本の名は見当たりません。


 松永英一も慶應商工から慶應大学に進んで昭和11年と昭和21年にセネタースと東京セネタースでプロ野球選手として出場した記録が残っています。松永英一は大正3(1914)年生まれで昭和11(1936)年にセネタースに在籍していたと記録に残っています。「日本職業野球聯盟公報」第六号(昭和11年9月15日発行)の「選手異動」欄には9月19日の理事会で松永英一が川崎コロンビヤからセネタースに入団することが認可されたと記載されています。慶應大学卒業後、若林忠志も所属していた社会人の強豪「川崎コロムビア」経由でセネタース入りし、9月25日の巨人戦で九番キャッチャーとしてデビューした記録が「日本職業野球聯盟公報」第七号(昭和11年10月15日発行)に残されています。同八号によると名古屋大会の10月6日のタイガース戦でプロ入り初安打を記録しています。名古屋大会にはキャッチャーとしてほぼフル出場しており守備率は10割を記録しています。セネタース捕手陣は北浦三男、中村民雄と強打者がひしめいており、その後は控えに回って時々代打で出場しています。昭和11年の記録は25打数1安打のようで、昭和21年は12打数0安打ですので昭和11年10月26日に放ったヒットがプロでの唯一のヒットとなったようです。「日本野球連盟ニュース」第十二号(昭和12年2月25日発行)の「選手退社 登録抹消」欄に松永英一の名前が見られますので昭和11年限りでプロ野球界からは去り、昭和21年に復帰したようです。昭和12年以降21年までの10年間の所在は不明です。


 国民リーグの宇高レッドソックスに所属していた記録が残っている亀山誠二は資料では慶應商工出身となっていますが大学を経由しているのか定かではありません。・・・その二に続く。

 

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