11月2日 (木) 後楽園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 2 4 0 6 イーグルス 26勝61敗2分 0.299 中河美芳
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 阪急 56勝31敗2分 0.644 荒木政公
勝利投手 中河美芳 6勝6敗
敗戦投手 荒木政公 9勝2敗
二塁打 (イ)杉田屋 (阪)日比野
三塁打 (イ)木下
本塁打 (イ)杉田屋 1号
木下政文、4打数3安打2得点2打点の活躍
イーグルス打線は阪急先発・荒木政公の前に6回まで木下政文の左前打1本に抑えられてきたが7回、先頭の杉田屋守が左翼スタンドに第1号ホームランを叩き込んで1点を先制する。翌日の読売新聞・鈴木惣太郎の論評によると「この一打を眺めていた鯱の里関は『あの小兵であの短いバットの持ち方でよくあれだけ飛ばしたものだ』と感心していたが、この一球は昔から彼の最も好む胸の高さの内角球で・・・」とのこと。鯱の里は前田山と共には鈴木惣太郎のコメントにたびたび登場します。因みに前田山は戦後横綱に昇進しますが休場中に後楽園球場でサンフランシスコ・シールズ戦を観戦していたことがばれて引退に追い込まれます。更に木下が中前打、中河美芳の三ゴロの間に木下は二進、伏見五郎の中前打で木下は三塁ベースを蹴ってホームに向かい、センターフランク山田伝からのバックホームを中継しようとしたピッチャー荒木が弾く間に木下が生還して2-0とする。
イーグルスは8回、一死後菅利雄が左前打で出塁、寺内一隆の三塁内野安打で一死一二塁、杉田屋が二打席連続長打となる二塁打を左中間に放って3-0、木下のこの日3本目となるヒットは中越えの三塁打となって二者還り5-0、中河も左前にタイムリーを放って6-0とする。
中河美芳は6安打4四球5三振、5月6日以来今季2度目の完封で6勝目をあげる。翌日の読売新聞によると得意のスロウ・ドロップがよく決まったとのことである。
木下政文が4打数3安打2得点2打点、三塁打1本の活躍を見せる。木下は鳥取一中から関西大学に進んで昭和13年にイーグルスに入団。中河美芳も鳥取一中から関西大学に進んで昭和12年夏に関大を中退してイーグルスに入団している。木下は1919年11月生まれ、中河は1920年2月生まれで現代風に言えば同学年となる。昭和11年の第22回夏の甲子園には一緒に出場している。年時からいくと木下も関大を中退していると考えられるので、当然中河に相談したか、中河の紹介でイーグルスに入団したのでしょう。中河は戦死することとなるが木下は生き延びて戦後は河野安通志が創設する予定であった東京カッブスに入団することとなっていたが、東京カッブスの聯盟参加は河野を毛嫌いしていた市岡忠男の猛反対により実現せず、木下は中部日本で1年だけプレーして引退することとなる。
荒木政公は6回まで1安打に抑えながら終盤崩れて9安打3四球1三振の完投で2敗目を喫して今季の成績は9勝2敗となった。荒木がプロ野球に残した通算成績は9勝2敗である。荒木は今季限りで兵役に就き戻ってくることはなかった。荒木は海星中学から門司鉄道局を経て阪急に入団し、1年限りで戦地に赴いた。海星中学は現・海星高等学校。1976年に長崎県予選で16連続三振を奪うなど甲子園でも大旋風を巻き起こしたサッシーこと酒井圭一は後輩となる。一般には三重県の海星高校と区別するために長崎海星と呼ばれる。長崎海星と三重海星は甲子園で二度対戦している。島根県からも「かいせいこうこう」が甲子園に出場しているがこちらは「開星高校」。
昭和14年の防御率第二位の高橋敏、第三位の荒木政公については第四位のスタルヒンを凌いでいるにもかかわらず球史で語られることはほとんどなく、当ブログが再発掘したと言っても過言ではないでしょう。
*中河美芳が6安打完封で6勝目をあげる。
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