2011年11月14日月曜日

14年 阪急vsイーグルス 5回戦


6月14日 (水) 後楽園


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 2 0 0 6 0 8 阪急       25勝10敗      0.714 重松通雄
0 0 0 2 0 0 0 0 0 2 イーグルス 13勝22敗1分 0.371 亀田忠


勝利投手 重松通雄 5勝5敗
敗戦投手 亀田忠     6勝8敗


二塁打 (阪)山下実、山下好一
三塁打 (阪)伊東


伊東甚吉、満塁走者一掃の三塁打


 昭和13年6月14日付け読売新聞は「イ軍総監督に山脇氏」の見出しで「イーグルスでは今回チーム取締役の山脇正治氏を総監督とし森監督と共にベンチを強化する事となった。」と伝えている。名古屋を飛び出した河野安通志が創設した理想球団イーグルスはタイガースから森茂雄監督を招聘したように早稲田閥であり、今回早稲田OBの重鎮である山脇正治を総監督に据えた。山脇正治の名前は相当深く日本野球史を研究されている方でないと聞いたことがないかもしれませんが、一高時代から早慶時代に移行する頃の選手です。河野安通志や獅子内謹一郎と同年代で、少し先輩に泉谷祐勝、押川清、橋戸頑鉄(今も都市対抗に「橋戸賞」の名を残す)など神話時代の名前が出てきます。日本初のプロ野球チームである日本運動協会は主に河野安通志、押川清、橋戸頑鉄の三人が中心となって創設されたものですが、山脇正治も出資者に名前を連ねています。イーグルスの選手で早稲田大学卒はキャプテンの杉田屋守と岩垣二郎がいますが、望月潤一と太田健一は早稲田実業出身です。尤も当時は早実からはほぼ全員が早稲田大学に進学していた訳ではないようですが。

 翌日の読売新聞は鈴木惣太郎のインタビューを次のように伝えている。因みに鈴木惣太郎は早稲田大学を中退してコロンビア大学に進んでいる。
鈴木惣太郎「監督の上に総監督を設けることは船長が二人になるようなもので船が左右にぐらつくことになりはしませんか?」 
山脇総監督「いや大丈夫だ、俺は軍司令官で森君は師団長だ、実践の総指揮官は矢張り森君だから命令二途に出ることはない。」
河野大先輩「総監督は監督の諮問に答えるのだからチーム統制に困難を来すことはない。」


 イーグルスは4回、先頭の寺内一隆が右前打で出塁、太田健一も中前打で続いて無死一二塁、高須清の遊ゴロをショート田中幸雄がエラーして無死満塁、中河美芳の左前打タイムリーで1点を先制、一死後杉田屋守の一ゴロの間に太田が生還して2-0とする。鈴木惣太郎は無死一二塁で送らず強攻策に出た点を作戦面の変化と論評している。

 阪急は5回、一死後西村正夫が四球で出塁、二死後二盗を決めると黒田健吾の遊飛をショート辻信夫が落球する間に西村が生還して1-2、山下好一の左中間二塁打で二死二三塁、上田藤夫に代わる代打浅野勝三郎が四球を選んで二死満塁、山下実が押出し四球を選んで2-2の同点に追い付く。

 阪急は8回、一死後日比野武、重松通雄が連続四球、トップに返り西村の一ゴロで一走重松が二封されて二死一三塁、ここでダブルスチールを決めて3-2と勝ち越し、フランク山田伝が中前にタイムリーを放ち4-2、山田が二盗を決めて黒田の遊ゴロをショート辻信夫が一塁に悪送球、黒田が二盗を決めて山下好一四球で二死満塁、伊東甚吉が左中間に走者一掃の三塁打を放って7-2、パスボールの間に伊東も還って8-2として試合を決める。

 新生イーグルスとしては辻信夫の二つのエラーが痛かったが、殆ど試合に出ていない筒井良武をキャッチャーに起用して阪急に6盗塁と走りまくられたのも敗因の一つであった。

 重松通雄は5安打1四球1死球3三振の完投で5勝目をあげる。重松は球速が増して好成績をあげている。古川正男、劉瀬章など下手投げの投手は何人かいるが軟投派であり、速球派下手投げとしては重松通雄が第一人者である。途中出場の伊東甚吉が満塁走者一掃の三塁打を放って試合を決めた。







          *完投で5勝目をあげた重松通雄のピッチング。




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