カージナルス二度目のワールドチャンピオンは1931年にフィラデルフィア・アスレチックスを4勝3敗で倒して達成されました。前年は同じ対戦で2勝4敗で敗れていますので雪辱を果たしたこととなります。アスレチックスのエース、レフティ・グローブはこの年31勝4敗、オフには来日して「スモークボール」で有名になりました。
前年と違ったのはラインナップにペッパー・マーチンが加わったことです。ペッパー・マーチンは通算4117打数1227安打、打率2割9分8厘の選手ですから日本での知名度は低いかもしれませんが、大リーグ史には欠かすことのできないプレイヤーです。1930年代のカージナルスが「ガスハウスギャング」と呼ばれたのはペッパー・マーチンがいたためとも言われています。
ペッパー・マーチンは1928年に大リーグデビューしますがこの年は39試合に出場して13打数4安打ですからまだ守備・代走要員だったのでしょう。この年カージナルスはナショナル・リーグを制してワールドシリーズに出場しますが26年に破った全盛期のニューヨーク・ヤンキースに歯が立たず0勝4敗でスイープされます。ペッパー・マーチンは1ゲームに出場して0打数0安打1得点の記録が残されていますので恐らく代走で出てホームに還ったのではないでしょうか。
1929年は大リーグでの出場は無く、1930年は6試合に出場して1打数0安打5得点の記録が残されていますので間違いなく代走要因だったのでしょう。1931年にレギュラーポジションをつかみ、123試合に出場して413打数124安打、打率3割、16盗塁を記録しています。因みにこの年の盗塁王は同じカージナルスのフランキー・フリッシュの28盗塁で、フリッシュは33年からプレイング・マネージャーとしてガスハウスギャング達を率いることとなります。ペッパー・マーチンの16個はベーブ・ハーマンの17個に次いでスパーキー・アダムスと並んでリーグ三位の成績です。因みにスパーキー・アダムスはカージナルスの三塁手であり、15個で五位のジョージ・ワトキンスもカージナルスの外野手です。ペッパー・マーチンは後年の三塁ではなくこの年はまだセンターを守っていたようです。
盗塁でリーグ上位五位までの四人を占めていることからも分かるように、この頃のカージナルスは走りまくるチームだった訳です。しかもペッパー・マーチンはヘッドスライディングの元祖とも言われる荒々しい走塁が売りで、「オーセージの荒馬」と呼ばれています。「ガスハウスギャング」の由来は、チーム全員がいつもユニフォームを泥だらけにしていることから、「ガス工場の労働者のようだ」からきているようです。
こう書いてくると、ペッパー・マーチンを知らなくても、何となくピート・ローズをイメージすれば良いのではないかと気づいた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
ペッパー・マーチンはこのシリーズで24打数12安打5得点5打点、二塁打4本、本塁打1本、5盗塁と大暴れし、全盛期のフィラデルフィア・アスレチックスを破る大金星をあげました。「大リーグ不滅の名勝負」(ベースボール・マガジン社)の21項「ワールドシリーズ大活躍 “オーセージのじゃじゃ馬”ペッパー・マーチン」によると「シリーズのヒーローとなり、週1,500ドルの契約でボードビリアンとしての地方興行を始めた。しかし4週間たったあと突然興行を中止、「自分は役者なんかじゃない、野球選手なんだ」といって残る5週間7,500ドルの興行を放棄してしまった。たしかに、彼の言う通りだ。ペッパー・マーチンこそまさに野球のために生まれてきたような男であった・・・・。」
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