2011年11月26日土曜日

闘将


 西本幸雄氏がご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

 本人が嫌っていたと言われる「悲運の名将」は封印してタイトルは「闘将」とさせていただきました。

 アンチ巨人であった私としては、日本シリーズで巨人に勝ってくれそうだった阪急を応援していました。阪急vs巨人の日本シリーズは後楽園球場に二度見に行ったことがあります。

 一度目は中学1年の時、1971年10月17日(日)のシリーズ第五戦、巨人がV7を決めた試合です。同級生数人とライトスタンドで見ていましたが、最終回、ランナーを置いて代打にスペンサーが出てきて高橋一三の落ちる球に空振り三振したシーンをよく覚えています。

 二度目は中学2年の時、1972年10月21日(土)のシリーズ第一戦です。この試合では王の打席でショートの大橋がセンターまでとことことやってきて、福本が右中間、大橋がセンターを守る「四人外野」の王シフトをやりました。この時も友達数人とライトスタンドで見ていましたのでこの後のシーンは目の前で見ることができました。王の当りは福本と大橋との間へのライナーとなり、大橋が左(ライトスタンドから見て)に走って半身になってフェンス直前でワンハンドキャッチ、私の角度からは、大橋が捕った瞬間ニヤリとしたのが見えました。正にしてやったりと言ったところでしょう。この一打は「史上最長のショートフライ」と言われていますが、実際にはほぼ真芯で捕えたライナーでした。

 後楽園球場に見に行くのは西鉄vs東映戦ばかりだったので、さすがにこれには誰も付き合ってくれずいつも一人で見に行っていましたが、日本シリーズは二度とも友達数人と見に行きました。3年時は受験前で日本シリーズを見に行こうなどと言いだす奴はいませんでした。

 西本幸雄氏には、2011年1月15日付けブログ「国府台球場」でも触れさせていただきました。覚えていてくださっている方もいらっしゃるのか、本日は数件のアクセスを頂戴しております。この時はスポニチの「我が道」に西本氏が連載中で、「西本氏がこの手の回顧録を書くのはこれが初めてとのことです。」と書いておりますが、西本氏は1992年に日経の「私の履歴書」にも連載されております。たしか「我が道」の連載初期に「回顧録を書くのはこれが初めて」との記述があったように記憶していましたのでこのように書かせていただきました。西本氏のお人柄から「私の履歴書」にも連載されたなどとはおくびにも出さなかったのかもしれません。1992年の「私の履歴書」は当然私も毎朝読んでいましたが不覚にも失念しておりました。「西本氏がこの手の回顧録を書くのはこれが初めてとのことです。」の部分は、謹んで訂正させていただきます。

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