2011年1月21日金曜日

アテ馬

 当ブログが参考にさせていただいているサイト「商売人と言われた職業野球」様によると、昭和13年6月18日土曜日のライオンvsセネタース戦でライオンの五番スタメンに名を連ねた日野弘美がプロ野球史上初のアテ馬であろうと、「記録の神様」宇佐美徹也氏の著書に書かれているとのことです。


 アテ馬を起用する要件としては、相手先発に左と右の候補がいてどちらが先発するか読めないこと、及び味方に右と左のスタメン候補が同一守備位置にいて左には右を、右には左を使いたい場合となります。


 昭和13年シーズンは戦況の深刻化を踏まえて週末に変則ダブルヘッダーを行っていますので、登板間隔が一週間開くことから比較的相手ピッチャーを読みやすい状況が続いておりました。ところがこの週は、6月15日(商店や工場の休業日)水曜日に三試合行われる予定が雨のために二試合が16日木曜日に順延され、セネタースは木曜日に試合を行い左の金子裕が先発して8回3分の0を投げ、右の浅岡三郎が1イニングをリリーフしました。


 ここまで実況中継してきたとおり、野口明が兵役で抜けた今シーズンのセネタース投手陣では金子裕が好調でエース格の活躍をしており、浅岡三郎との二人で回してきていることから中一日で金子でくるか浅岡でくるかは五分五分というシチュエーションでした。




 一方、ライオンの小西得郎監督は強打の煤孫伝を買っており、たびたびライトの水谷則一主将に代えて起用しています。6月1日のイーグルス3回戦などはレフトの左利き鬼頭数雄をセカンドに回してレフトに煤孫伝を入れています。この日も金子が先発なら右の煤孫を、浅岡が先発なら左の水谷を使う腹だったのでしょう。


 但し当時はまだ偵察メンバーと言う概念が一般的ではなく、先発に名を連ねて一度も打席に立たずに交代させられるなど、切腹ものの屈辱ではなかったのではないでしょうか。現代であれば昨日投げたピッチャーをアテ馬に使うことに抵抗はないでしょうが、当時は選手層が薄くアテ馬に使える選手そのものが極めて限られれています。小西監督としては、明大の後輩に当たる日野弘美をアテ馬に指名する以外に選択肢はなかったと考えられます。試合は15対9で快勝し、特に初回の攻撃では“代打”水谷のタイムリーを含む大量6点のビッグイニングとなり、小西監督としては快心の采配だったでしょう。もちろん一度も打席に立つことなく交代させられる日野の気持ちを慮ってライオンナインが燃えたことも大量15点につながったと考えられます。


 アテ馬の語源は読んで字の如く競馬用語からきています。繁殖牝馬の発情状況を確認することを使命とする「試情馬」のことを言います。競馬史に残るアテ馬物語としては1988年のオークスが有名です。

 この年のオークスを10番人気という人気薄で制したコスモドリームの父親はブゼンダイオーです。コスモドリームの母スイートドリームには後ろに存在する物体を後ろ足で蹴るというゴルゴ13のような癖があり、高価な種牡馬を種付けすることが困難な状況でした。1985年の種付けでも人気種牡馬モガミを付けようとして受胎せず、仕方なく繁殖シーズンも終わりかけた7月にアテ馬のブゼンダイオーに種付けのチャンスが回ってきて無事受胎したわけです。こうして産まれたのがコスモドリームですが、何しろ繁殖シーズン末期に種付けが行われたことから6月13日という遅産まれでした。サラブレッドの成長速度は人間の約4倍と言われており、3か月が人間の1年に該当します。通常繁殖シーズンは春なので3月産まれ位が標準となりますので、コスモドリームは生れながらにして同期より1年遅れのハンデを負うこととなりました。しかも父親がアテ馬です。競馬は血統と言われるくらい血筋が何よりも重要となりますのでコスモドリームに期待した人はほとんどいなかったでしょう。

 その割にはコスモドリームはよく走りました。1988年1月のデビュー戦で3着、2戦目で勝ちあがり4月に2勝目をあげて何と牝馬クラシックの頂点であるオークスに駒を進めてきました。10番人気とは、人気薄ではありますが、コスモドリームの生い立ちから見ればかなりの人気を集めたとも言えます。直前に勝ったレースが芝2200メートルのレースであったことが大きな要因です。ご存知のとおりオークスは府中の芝2400メートルで行われます。


 直線に入るや馬場の真ん中から抜け出して快勝し、父ブゼンダイオーの名を天下に知らしめることとなりました。


 このオークスにはもう一つ有名なエピソードがあります。フジテレビで実況を担当していたSアナウンサーが、同枠のサンキョウセッツ(こちらも人気薄)と間違えてゴール番が過ぎるまで「サンキョウセッツです、サンキョウセッツが勝ちました。」と絶叫し続けました。解説の大川慶次郎さんの「コスモドリームです」という小声までテレビで流れてしまい、名アナウンサーとして名高いSアナはしばらく競馬中継から外されました。

 1988年といえばオグリキャップが笠松から中央に殴り込みをかけてきて大旋風を巻き起こした年です。オークスと同時期に行われたニュージーランドトロフィーで関東ファンに初めてその姿を見せました。持ったままの快勝で、フジテレビの「オグリキャップはまだ追わない、オグリキャップはまだ追わない」の中継には震えが来ました。秋にはスーパークリークで武豊が初のG1を制し、競馬ブームが到来する夜明けの出来事です。
 
 

*日野弘美がアテ馬に使われた試合のオーダー


 

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