5月28日の甲子園は雨のため第二試合、第三試合は中止となりました。第二試合の名古屋vsセネタース3回戦は、3回表の名古屋の攻撃途中でタイムがかかり結局ノーゲームとなりました。ノーゲームとなるまでの記録はスコアブックに残されておりますのでお伝えいたします。
名古屋は初回の攻撃で4点をあげましたが、現在4割をキープしている首位打者の桝嘉一は捕邪飛と中飛、2位の石田政良は四球と右飛で共にノーヒットなのでラッキーというところでしょう。白木一二は2打数2安打なので大損というところです。
スコアブックには最後のバッターとなった大沢清の第二打席は右中間にライナーのホームランと記録されております。甲子園球場は両翼110メートルであり、左中間と右中間は膨らみを持つ設計となっていますのでほとんどホームランは出ません。昭和9年来日時のベーブ・ルースも「甲子園は広すぎてホームランは出ない」とコメントを残しているほどです。
スコアブックにホームランと記録されていてもオーバーフェンスなのかランニングホームランなのかの区別は分かりませんので読売新聞の記述と合わせて検証しておりますが、昭和12年以降甲子園のオーバーフェンスと認定できるのは
昭和12年
4月7日 中島治康 (中島の大本塁打=読売の記載、以下同じ)、
10月6日 中村信一 (中村信が今シーズン甲子園最初のホームランを放って)、
10月10日 景浦将 (景浦が中堅後方に本塁打を打ち込んで)
11月4日 宮武三郎 (宮武が左翼観覧席に本塁打を叩きこんで)
の4本だけで、中村信一の当りも記載ぶりだけからは確実にはオーバーフェンスとは言えないものです。
6月1日の煤孫伝は「右翼柵に添って転々とする」、6月24日の中根之は「左中間痛打を脚に委せて本塁打」と記載されていることからランニングホームランであることが分かります。6月25日の北浦三男は「痛烈に右翼を襲う本塁打」と書かれており、恐らくオーバーフェンスではないでしょう。
因みに昭和13年はここまで合計19本の本塁打が記録されていますが、松木謙治郎が西京極球場で川上哲治から打った1本以外は全て後楽園球場で記録されたもので甲子園は1本もありません。
本件はノーゲームなので読売新聞の記事の対象にはなっておりません。果たして大沢清に甲子園の右中間スタンドにライナーで叩きこむだけのパワーがあったのかどうかは分かりません。しかし一方で、右中間をライナーで抜いてのランニングホームランも考えにくいのは事実です。イチローのオールスターの時のように、フェンスの角にぶつかって途方もない方に転がっていけば誰が走ってもランニングホームランになりますが。
因みに大沢清は鈍足としても有名なので、足を考えてもオーバーフェンスの可能性もあります。この直後に雨で中断となっているので右中間に転がったボールの球足が弱まってランニングホームランになったとも考えられますが。
いずれにしても興味深い「幻のホームラン」であることは確かでしょう。大沢清の「右打ち伝説」にぜひ付け加えたいエピソードです。
*大沢清の幻のホームランを伝えるスコアブック
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