2011年1月10日月曜日

隠し玉

 日本で最初に隠し玉をやったのは苅田久徳だそうで、昭和11年の藤井勇が初ホームランを打った試合でやったそうです。法政時代に若林忠志から教えてもらったそうです。本日アップしました昭和13年6月5日の後楽園球場では二度の隠し玉が成功していますのでご報告させていただきます。

 第一試合のセネタースvs金鯱戦8回の金鯱の攻撃、この回先頭の松元三彦が左翼線にヒットを放ち鈴木鶴雄が送って一死二塁、中山正嘉の中飛を急造センターの伊藤次郎が落球して一死一三塁となります。打者佐々木常助とのスクイズはウエストされて三走松元が三本間に挟まれ挟殺プレーとなります。白球は2-5-1-6と渡り松元はタッチアウト、2往復ほどしましたので一走中山は二塁に達しました。挟殺プレーなのでセカンド苅田も三塁ベース近くに行っていたのでしょう。いつの間にか白球はショート今岡謙次郎から苅田のグラブに渡っており、セカンド中山が離塁したところで苅田がタッチしてアウト。

 お次は第三試合の阪急vsジャイアンツ戦9回のジャイアンツの攻撃、この回先頭の水原茂は三ゴロに倒れて続く中島治康が右前打で出塁、二盗を決めて一死二塁となります。続く伊藤健太郎の左飛で中島はタッチアップから三塁に進みましたが、白球は中継に入ったショート上田藤夫からいつの間にかサード黒田健吾のグラブに収まっており中島が離塁したところをタッチアウト。


 私が高校三年の夏の県大会準決勝(と言っても神奈川軟式ですが)で、1点ビハインドの終盤、三塁ランナーが隠し玉に引っ掛かりチャンスを逸して1点差で敗退し、二年連続南関東大会出場を逃しました。

 高校軟式夏の大会では、神奈川、千葉、埼玉の代表校で南関東大会を行い、その勝者が全国大会に出場できます。三県で毎年持ち回りで開催され、開催県が2校、他県から1校ずつが出場して準決勝、決勝を行います。二年の時は神奈川で優勝し、千葉県高校野球の聖地天台球場で行われた南関東大会に出場しました。千葉の代表は千葉商業と市川高校、我々は市川高校と対戦して1対2で敗れました。最終回、四番が凡退して私に打順が回ってきました。レフト前にヒットを放ち一死一塁、勝負を賭けた盗塁のサインが出ましたがヘッドスライディングも及ばずタッチアウト、続く六番キャプテンが三ゴロに倒れて終了しました。監督はお前が盗塁を決めたらバントエンドランで同点を狙うつもりだったと言っていました。私は市川から神奈川の高校に通って神奈川代表で市川高校と対戦して敗退した訳です。

 三年時は神奈川で開催されましたので準決勝に勝てば二年連続出場です。レギュラーが7人抜けて秋も春も一回戦コールド負けでしたが夏に快進撃、ベスト四に進みましたが隠し玉でやられました。

 と言うことで私は隠し玉が嫌いです。そもそもスポーツにあるまじき行為だと考えます。戦時中には武士道に反するとして禁止になったそうですが、その精神に100%賛同します。

 後になってよくよく考えてみると、相手ピッチャーはプレートに足を掛けていました。セットポジションに入ったので三塁ランナーがリードをとったところサードにタッチされた訳です。明らかにボークで同点になっていた訳ですが、当時は野球ルールブックなどまったく勉強しておらず、審判もそのままアウトを宣告しました。

 と言うことで私の勉強不足が敗因であった訳ですが、それでも隠し玉が嫌いという考えは変わりません。


*第一試合で苅田久徳がやった隠し玉の場面






*第三試合で黒田健吾がやった隠し玉の場面


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