2011年1月31日月曜日

木樽と言えば阿天坊

 習志野が登場すれば銚子商業が登場せざるを得ません。銚子商業が全国にその名を轟かせたのは矢張り昭和40年の夏の甲子園準優勝でしょう。上田(後に南海)を擁して原監督(巨人の原監督の親父)率いる三池工業に決勝で敗れはしましたが、剛腕木樽(後にロッテでMVP)を擁して決勝まで進出しました。


 この時のショート(サード説もありますが私の記憶ではショート)が阿天坊です。当時の千葉県の小学生で阿天坊の名前を知らなければモグリです。千葉県以外の野球少年にもこの名前は印象的だったようで、現在の職場の同僚にも「木樽と言えば阿天坊」で通じる人がいます。


 小学校一年生の時のことです。まだプロ野球の記憶はありません(最初の記憶は堀内のルーキーシーズンなのでこの一年後のことです)ので、私の野球事始めが阿天坊だったわけです。まさに千葉県の野球少年にとっては夢のような時代でした。この二年後に習志野が全国優勝、千葉県予選では習志野以上に銚子商業のライバルだった成東高校との激闘。銚子商業の根本(後に日石、大洋)と成東の鈴木孝政(後に中日)との投げ合いこそ、千葉県高校野球史上不滅の名勝負でした。


 昭和48年のセンバツ1回戦では銚子商業の飯田投手と土屋(2年)が打たれて報徳学園に16対0の大敗を喫しました(記憶のまま。泣きながらテレビを見ていましたのでスコアまで覚えているはずですが違っていたらお許しください)。この夏、作新学院の江川を倒します。九番ライト多部田選手の顔面血だらけの本塁突入もこの試合です。あれは明らかに小倉捕手のインターフェアでした。この試合は作新サイド、江川サイドから書かれているものが圧倒的多数ですので、当ブログでは徹底的に銚子商業サイドから追及していく所存です。勝負を決めた延長12回、外角高めのボール球に食らいつくようにバットを出してセンター前に運んだ多部田選手の執念がサヨナラ劇を生んだものです。


 この後昭和49年、50年の銚子商業、習志野による二年連続全国制覇をピークに千葉県高校野球バブルは崩壊し、失われた35年が経過しました。木樽、阿天坊の準優勝から土屋の優勝まで、私の十代は銚子商業と共にあったと言っても過言ではありません。

 2チャンに「1960年代の高校野球を語ろう」というスレがあり、大宮工業がセンバツで優勝した時、「ちなみに吉沢投手の仕草は当時埼玉の少年がよく草野球で真似をしてたらしい 」という書き込みがあります。千葉では阿天坊、埼玉では吉沢投手(後に慶大では三塁)。全国47都道府県には47人の阿天坊がいるのでしょうね。




*阿天坊俊明氏はプロに進んでいませんので呼び捨ては大変失礼ですが、全体の文章の流れから敬省略とさせていただいております。ご了承ください。


          *甲子園準優勝時のサインボール




          *こちらは斎藤監督


*当時のアサヒグラフに掲載された阿天坊と木樽。(2020年6月6日追加)



4 件のコメント:

  1. 岐阜県営球場で木樽・阿天坊見ました。
    その時阿天坊はケガをしていたのか
    どちらかの手は包帯していました。
    今でも覚えてます

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    1. 1965年の岐阜国体でしょうか。
      地元枠の岐阜代表は三岐大会決勝で三重・海星に敗れて甲子園には出られなかった岐阜短大付属ですかね。

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  2. 私は埼玉の人間ですが、親戚が銚子に沢山あり、叔父さん連中は、銚子商業高校出身で、「好打、俊足」の「阿天坊」と言った選手がいると、ニックネームが「あわてんぼう」と言われていると、いつておりました、銚子商業に阿天坊あり、今でも記憶にあります。

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    1. 私も大宮工業の吉沢投手は覚えています。
      当時のアサヒグラフに掲載された阿天坊と木樽の写真を追加しました。今ではこんな構えのできる遊撃手は見なくなりましたね。

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