9月21日 (土) 甲子園
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 名古屋 41勝29敗5分 0.586 西沢道夫
0 0 0 0 4 1 0 2 X 7 タイガース 46勝27敗3分 0.630 若林忠志
勝利投手 若林忠志 18勝12敗
敗戦投手 西沢道夫 14勝7敗
二塁打 (名)三浦 (タ)田中、若林
三塁打 (タ)田中、伊賀上
勝利打点 若林忠志 3
若林忠志、2試合連続完封
タイガースは初回、先頭のジミー堀尾文人が中前打で出塁、皆川定之の投ゴロで堀尾は二封、ピッチャー西沢道夫の一塁牽制に皆川がタッチアウト。皆川の投ゴロも送りバントを西沢が巧く処理した可能性がある。
タイガースは2回、先頭の伊賀上良平が三塁に内野安打、二盗を試みるがキャッチャー三浦敏一からの送球にタッチアウト、カイザー田中義雄が左中間に二塁打、松木謙治郎は二ゴロに倒れて二死二塁、キャッチャー三浦の二塁牽制に二走田中はタッチアウト、ここまで名古屋バッテリーの堅い守りが見られた。
タイガースは5回、先頭の田中が左越えに三塁打、松木が四球を選んで無死一三塁、若林忠志が左中間に先制二塁打を放って1-0、松尾に変わる代打比留木虎雄の三ゴロをサード芳賀直一がエラーする間に三走松木が還って2-0、比留木には打点が記録されている。なお無死一三塁から宮崎剛が左翼線にタイムリーを放って3-0、トップに返りジミー堀尾文人の投前バントを西沢が二塁に送球するがセーフ、野選となって無死満塁、皆川は遊飛に倒れるが本堂保次の左犠飛で4-0とする。
タイガースは6回、先頭の伊賀上が左翼線に三塁打、田中の遊失で伊賀上は動かず無死一三塁、松木の右犠飛で5-0と突き放す。
タイガースは8回、先頭の本堂が四球で出塁、伊賀上が左前打、田中の投ゴロで二走本堂は三封、松木は二飛に倒れて二死一二塁、しかし若林が中前タイムリーを放って6-0、森国五郎の左前打で二死満塁、宮崎の中前タイムリーで7-0とダメを押す。
名古屋は初回、桝嘉一が遊失に生き、すかさず二盗に成功、村瀬一三は三振に倒れるが大沢清が四球を選んで一死一二塁、しかし吉田猪佐喜は右飛、三浦敏一は遊ゴロに倒れる。2回も先頭の中村三郎が中前打、芳賀直一も中前打で続いて無死一二塁、木村進一の送りバントを若林が巧く捌いて中村は三封、トップに返り桝の遊ゴロは「6-4-3」と渡ってダブルプレー。名古屋は序盤のチャンスを生かすことができなかったのが最後まで響いた。
名古屋は8回、先頭の桝が右前打で出塁、しかし村瀬は三振、大沢の二ゴロは「4-6-3」と渡ってダブルプレー。9回も一死後三浦が右翼線に二塁打を放つが中村は遊ゴロ、芳賀直一も遊ゴロに倒れて“試合終り”を告げるサイレンが鳴り響く。名古屋打線はゴロアウト14個で2併殺を喫するなど若林の術中にはまった。
若林忠志は6安打2四球4三振で2試合連続、今季6度目の完封で18勝目をあげる。
タイガースは9月16日にプロ入り初出場した松尾五郎が八番レフトでプロ入り初スタメン。松尾の入団の経緯について松木謙治郎は「タイガースの生いたち」に「昭和8年、私が大連実業に招かれて満州に渡ったとき、松尾が佐賀商業から外野手として入団してきた。・・・松尾は中学出たてとは思えぬほどの打力をもち、三番に起用されたが、その重責を立派につとめた。15年8月、満州遠征したとき、私は彼を阪神に勧誘した。・・・」と書いている。「都市対抗野球大会60年史」によると、昭和8年の第7回都市対抗に大連市代表として出場した大連実業は三番松木謙治郎、六番松尾五郎というラインナップであった。松尾は昭和18年に応召するが生き延びて地元に戻り、戦後は昭和27年の第23回都市対抗に佐賀大町町代表として杵島炭鉱の四番打者で出場することとなる。翌28年の第24回都市対抗にも杵島炭鉱の三番打者として出場して3打数1安打を記録している。
タイガース5回の攻撃で松尾の代打に登場した比留木虎雄は昭和12年に長崎商業からタイガースに入団、12年暮れに入営して帰還復帰してきた。比留木は昭和16年までのプロ生活で通算3打点を記録するが、この日の打点が自身通算2打点目となる。戦争の時代を生き抜いて戦後は母校・長崎商業の監督に就任し、昭和27年には春夏連続甲子園に出場し、センバツはベスト8、夏はベスト4に進出している。このチームからは河津憲一(大阪タイガース)、太田正男(西鉄)の二人をプロに送り込むこととなる。
満州からやって来てプロ入り初スタメンの松尾五郎と、松尾の代打に登場した比留木虎雄の二人は、戦争を挟んで12年後の昭和27年に檜舞台に帰ってくることとなるのである。
*若林忠志は6安打完封で18勝目をあげる。
*数奇な運命を辿ることとなる松尾五郎と比留木虎雄。
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