2012年10月9日火曜日

懐古ブーム



 今週はIMF・世界銀行年次総会ですが日本で開催されるのは48年振りのこととなります。先日はミゲール・カブレラが1967年のカール・ヤストレムスキー以来45年振りの三冠王に輝きました。日経平均株価は約30年振りの水準に後戻りしており、昨日の千葉県高校野球秋季大会では1975年以来37年振りに決勝戦での習志野vs銚子商業の伝統の一戦が実現して習志野が延長12回サヨナラ勝ちしました。習志野は1976年夏の千葉県大会準決勝で延長10回、銚子商業の斎藤jrにサヨナラホームランを打たれた雪辱を36年振りに晴らしたことになります。


 世の中いたるところで懐古ブームですが、極め付けの記録が誕生しました。昨日、オリックスの西勇輝が今季最終戦で無安打無得点を達成しましたが、シーズン最終戦の無安打無得点は昭和12(1937)年春季の石田光彦以来75年振りの記録です。四球1個の準完全試合はチーム(阪急、オリックス)では昭和15(1940)年の浅野勝三郎以来72年振りのこととなります。石田と浅野の無安打無得点試合は既に当ブログで紹介済みですが、折角の機会なので振り返ってみましょう。


 昭和12年7月16日の阪急vsセネタース8回戦、石田光彦は7回に尾茂田叶に四球を1個を与えただけで無安打無得点を記録しました。5回にショート上田藤夫が一塁に悪送球し、8回にも上田がエラーしていますので準完全試合ではありません。石田は昭和15年の満州シリーズでも2度目の無安打無得点を記録しています。


 昭和15年4月14日のタイガースvs阪急2回戦、浅野勝三郎は3回に山根実に四球を1個与えただけで無安打無得点を記録しました。この日の阪急守備陣はノーエラーなので準完全試合となりました。山根の四球が無ければ藤本英雄より一足早く史上初の完全試合となるところでした。


 石田光彦は軟式の東京リーガル倶楽部出身、浅野勝三郎は明石中学時代は山田勝三郎として中京商業との延長25回の試合ではセンターを守っていました。すなわち、浅野は楠本保、中田武雄ほどのピッチャーではなかった訳で、二人ともエリートコースを歩んできたわけではありませんが、ひょんなことから歴史の表舞台に顔を出すこととなりました。






            *石田光彦と浅野勝三郎が記録した無安打無得点を伝えるスコアカード。

 
 





      *石田光彦に無安打無得点に抑えられたセネタース打線。






      *浅野勝三郎に無安打無得点に抑えられたタイガース打線。








                 *1975年第57回夏の千葉県大会パンフレット。










*同大会の習志野高校のメンバー表。エースは小川(現・東京ヤクルトスワローズ監督)で前年の銚子商業に続いて2年連続で深紅の大優勝旗を千葉県に持ち帰りました。2年生の岩崎が四番を打ち、同じく2年生の下山田が決勝戦で優勝を決めるサヨナラヒットを放ちました。















*同大会の銚子商業のメンバー表。前年優勝メンバーから篠塚と前嶋が残りショートは宇野です。キャプテンは篠塚ではなく前嶋です。前嶋は一浪して一般入試で慶應義塾大学野球部に進み神宮でも活躍しました。銚子商業野球部史上屈指の秀才と言われています。1年生の控えに尾上(後に中日)と斎藤jr(斎藤一之監督の息子で後の銚子商業監督)の名前が見えます。

 習志野と銚子商業のメンバーの出身中学を見ていただければ分かるとおり、ほぼ全員が地元の中学生です。このメンバーで2年連続夏の甲子園を制覇しました。









 上記の37年前の1975年秋季大会はこの夏が終わった後の新チーム同士の対決です。小川が抜けた習志野は岩崎と下山田が残りましたが、宇野が残って尾上、斎藤jrがレギュラーとなった銚子商業が一枚上と見られていました。結果は習志野が勝って関東大会でも好成績で翌春のセンバツは習志野が出場しました。

 翌1976年夏の銚子商業vs習志野の準決勝は「世紀の一戦」と呼ばれ、天台球場は満員札止めとなりました。何しろ前々年と前年の全国制覇校同士の決戦です。甲子園で優勝するより千葉県代表となる方が難しいと言われていました。この試合は2対2のまま延長戦に突入し、斎藤jrがレフトスタンドにサヨナラホームランを放って決着がつきました。決勝戦は銚子商業が安房高校を15対0で降しています。






 

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