1954年にボルチモアに移転したオリオールズのチーム名はメリーランド州の州鳥である「ボルチモアムクドリモドキ(Baltimore Oriole)」に由来します。1966年にシンシナティ・レッズからフランク・ロビンソンを獲得して初のワールドシリーズ制覇を達成しました。F.ロビンソンはこの年三冠王となりました。翌年ボストン・レッドソックスのカール・ヤストレムスキーが三冠王となって今年のミゲール・カブレラまで45年間最後の三冠王でしたが、ヤストレムスキーが三冠王となっていなければフランク・ロビンソンが46年間最後の三冠王と呼ばれるところでした。
「ダイナスティ」と呼ばれたオリオールズ王朝は1969年~71年までアメリカン・リーグを三連覇しました。69年のワールドシリーズはミラクル・メッツに敗れ、71年も翌年事故で亡くなることとなるロベルト・クレメンテの奇跡的な活躍によりピッツバーグ・パイレーツに敗れて黄金時代のワールドチャンピオンは1970年だけでした。ジム・パーマー、マイク・クエイヤー、デーブ・マクナリー、パット・ドブソンの四人が20勝を記録した71年は大リーグ史上有数の強豪チームと言われています。
オリオールズは1971年に日米野球で来日しました。中学1年生だった筆者は、71年に彗星の如く登場したバイダ・ブルーで大リーグに興味を持ち、オリオールズの日米野球で虜になって今日に至っています。パット・ドブソンが富山でやったノーヒット・ノーランの印象が決定的でした。日本人が“魔球”スクリュー・ボールを知ったのはクエイヤーが投げてからです。フランク、ブルックスの両ロビンソンの活躍、ブーグ・パウエルが放ったバカでかいホームランが話題となりました。巨人はV7の年で「日米決戦だ~」と騒いでいたようですが巨人単独で対戦した11試合は0勝8敗3分と歯が立ちませんでした。
11月13日の平和台では西鉄巨人連合軍が延長10回9対9の引分けと健闘しました。この試合では巨人のピッチャーは登板せず、河原明、東尾修、田中章、三輪悟のリレーで引分けに持ち込みました。竹之内がホームランを打っています。
二塁手のデイビー・ジョンソンは4年後に長嶋ジャイアンツの一員となりました。帰国後1986年にニューヨーク・メッツの監督としてワールドシリーズを制覇しました。2012年はワシントン・ナショナルズの監督として現在ディビジョンシリーズを戦っており、本日はカージナルスに3対2で勝っています。
センターのドン・ビュフォードは印象には残りませんでしたが、73年に太平洋クラブライオンズに参加してビュフォード旋風を巻き起こしました。西鉄ライオンズファンだった筆者は観客2~3千人の後楽園球場の東映vs西鉄戦に通っていましたが、ビュフォード旋風の日拓vs太平洋戦を後楽園に見に行った時、三塁側スタンドが超満員で驚きました。当時の週間ベースボールで、ビュフォードは西鉄時代は不人気であったことを知って、自ら福岡の住宅街を一軒一軒歩いてチケットを買ってもらっていたという記事を読んだことを覚えています。
82年にカル・リプケンjrがデビューして新人王を獲得、翌83年にリプケンはMVPを獲得してチームも3回目のワールドチャンピオンとなりました。84年の日米野球に二度目の来日となりましたが、この年は前年のアメリカのチャンピオンと84年の日本のチャンピオンによる「日米決戦」という位置付けでした。83年に企画した主催の読売新聞は江川、西本の全盛期で巨人が優勝できると過信していましたが、この年の日本チャンピオンは広島東洋カープでした。ベストナインに輝いた山根和生がエースに成長し、西武ライオンズから出戻ってきて最優秀防御率に輝いた小林誠二がリリーフの切り札となりました。
この結果、この年アメリカン・リーグ五位に低迷したボルチモア・オリオールズvs読売新聞が想定していなかった広島東洋カープという締まらない「日米決戦」となってしまい、ほとんど話題にはなりませんでした。読売新聞も白けてしまって主催者でありながら報道には力が入りませんでした。
初のワイルドカード・ゲームを制したのがかつては共にセントルイスをフランチャイズとしていたオリオールズとカージナルスとなりました。このままワイルドカード同士のワールドシリーズとなれば、1944年以来の対決ということになります。
*1966年三冠王のフランク・ロビンソン。
*日本にスクリューボールを伝えたマイク・クエイヤー。1969年サイ・ヤング賞です。
*1971年11月2日、富山の巨人戦でノーヒット・ノーランをやったパット・ドブソン。私の誕生日の出来事でした。
*1973年に太平洋クラブライオンズにやってきて大旋風を巻き起こしたドン・ビュフォード。1971年のオリオールズチームサインボールより。上から二人目です。
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