2012年9月16日日曜日

15年 タイガースvs金鯱 4回戦



5月19日 (日) 後楽園

1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
0 0 0 0 2 1 2 0 0  5 タイガース 18勝13敗1分 0.581 若林忠志
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0 金鯱            9勝18敗1分 0.333 古谷倉之助 長尾貞利

勝利投手 若林忠志     7勝7敗
敗戦投手 古谷倉之助 3勝6敗

二塁打 (タ)山根、皆川、堀尾

勝利打点 山根実 1


3本の二塁打

 4回まで無安打のタイガースは5回、一死後ジミー堀尾文人が左翼線にヒット、伊賀上良平の遊ゴロをショート濃人渉が一塁に悪送球、捕逸で堀尾が三塁に進み一死一三塁、山根実が右中間に2点タイムリー二塁打を放って2点を先制する。

 タイガースは6回、先頭の皆川定之が左中間に二塁打、本堂保次の投ゴロの間に皆川は三進、松木謙治郎の二ゴロの間に皆川がホームに還って3-0とする。

 タイガースは7回、先頭の堀尾が中越えに二塁打、伊賀上の遊ゴロを又も濃人がエラーして無死一三塁、山根は三振に倒れるが若林忠志が左翼線にタイムリーを放って4-0、トップに返り宮崎剛の三ゴロは「5-4-3」と転送されるがセカンド竹林実からの一塁送球が悪送球となる間に伊賀上が還って5-0とリードを広げる。

 金鯱は8回から先発の古谷倉之助に代えて長尾貞利をマウンドに送る。長尾は2イニングを無安打無四球3三振無失点に抑えた。

 若林忠志は3安打2四球1三振で3月17日のジャイアンツ戦以来今季2度目の完封勝利を飾った。

 タイガースは山根実、皆川定之、ジミー堀尾文人の3本の二塁打を得点に結び付けて快勝、6連勝を飾って四強に迫ったきた。ペナントレースは五強の様相を呈してきた。


 金鯱では8回からリリーフに出た長尾貞利の好投が目に付いた。長尾は今季プロ入りし、デビュー戦となった4月18日の阪急戦では4イニングを無失点、20日のタイガース戦では4イニングで2点を許したが21日のイーグルス戦でも4イニングを無失点、5月15日のタイガース戦では2イニングで1失点であったが自責点は0、本日も2イニングを無失点に抑えた。ここまで5試合に登板して16イニングスを投げて8安打7四球7三振3失点、自責点2で防御率1.13という好投を続けている。長尾がデビュー直後にこれだけのピッチングを披露していた事実はこれまで全く知られていなかった。


 長尾貞利の出身校は謎でもある。ネット上では群馬県の太田中学(現・群馬県立太田高等学校)となっているサイトも複数存在するが、「日本プロ野球記録大全集」(ベースボール・マガジン社)では「大田中」と書かれており、「プロ野球50年史」(ベースボール・マガジン社)には「島根大田中」と書かれている。島根県の大田中学であれば現・島根県立大田高等学校となる。BBM社の資料では「島根県の大田中学」となっており、ネット上のサイトでは「群馬県の太田中学」となっている。BBM社の資料でも間違いの可能性はあり、筆者が見ているネット上のサイトは深く野球史を研究されている方のサイトなのでBBM社の資料が間違っていることを確認されている可能性もあります。昭和15年3月15日付け読売新聞に全チームのメンバー表が掲載されており、ここでは「長尾貞利(大田中)」となっています。当時の新聞には誤植も多く見られますので、これをもって島根県の大田中学であると断言するのは危険です。両校の卒業生名簿で確認するしか手はないようです。


 群馬県の太田中学(現・群馬県立太田高等学校)は他にプロ野球選手を出していないようですがプロ野球初代コミッショナーとなった福井盛太コミッショナーを輩出して球史に深く関与しています。島根県の大田中学(現・島根県立大田高等学校)は福間納の母校となりますので、仮に長尾貞利が島根県の大田中学出身であるとしたら、阪神のショートリリーフとして活躍した福間と共に、伝統的に好リリーバーを輩出してきたことになります。



*若林忠志は今季2度目の完封で7勝目をあげる。金鯱二番手の長尾貞利は本日も好リリーフを見せた。








*昭和13年3月15日付け読売新聞に発表されたメンバー表では長尾貞利の出身校は「大田中」となっている。当時の記事には誤植も多く見られますのでご注意ください。なお、当時の読売新聞のコピーは野球体育博物館の図書室でコピーさせていただいています。野球体育博物館のご指導により記事の写真をブログにアップすることは控えておりますが、本日は特別に掲載させていただいております。問題があるようでしたら削除させていただきます。








 

4 件のコメント:

  1. 太陽ロビンスと大陽ロビンスの違いともいうのでしょうか。

    長尾貞利の出身校は野球界社発行の『職業野球便覧』(39年・40年)によると"太田中"と記載されています。
    森岡浩編『プロ野球人名事典』(03年)も同じく"太田中"。
    しかし、当時連盟の公式記録員だった広瀬謙三著『日本野球十二年史』(48年)は"大田中"になっています。

    いい加減なもので、本田"親喜"が本田"親善"と誤ったまま、伝えられて記録に残ったりと何処かで間違いが起きると、ずっとそのままの状態になるんですよね。

    古い時代の事だからと適当にしているのでしょうか。

    http://eiji1917.blog62.fc2.com/

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    1. BBMも広瀬謙三も元ネタは同じなのでしょう。野球界社発行の『職業野球便覧』(39年・40年)の信憑性が高そうですがいかがでしょうか。

      昭和17年に南海に入団する八木進の出身校についてもネット系では関西学院中学となっていますが、ベースボール・マガジン社発行の「日本プロ野球記録大全集」及び、(財)野球体育博物館編集・ベースボール・マガジン社発行の「野球殿堂2012」の「鎮魂の碑に祭られている選手」では関東学院中学となっています。

      関西学院は部史が出ていますので関西学院中学のレギュラーメンバーを調べることが可能ですが八木進の名前は見つかりませんでした。レギュラーでは無かったが南海に入団したのか、関東学院中学出身なのか、こちらも分かりません。

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    2. 八木進は『プロ野球人名事典』(03年)には兵庫県出身の"関西学院中"となっています。

      しかし、『日本野球十二年史』(48年)とBBM社編『鎮魂の碑』(81年)という小冊子に"関東学院中"とあり、『53年・野球界六月号』の大和球士筆『日本プロ野球球団史 南海ホークス』では"ハマの関東学院中学の出身で身長五尺八寸五分。横浜中等球界の三羽烏として飯田徳治、小松原博喜と共に鳴らした男である。"と書いてあります。
      恐らくですが"関東学院中"が正しいと思います。

      ちなみにですが、大和氏によると、八木捕手はミクロネシアのボナベ島の生まれで、島で働く父親を残して内地で勉強をしていたそうです。最期は北支で戦死。

      辛口評論で知られた大井廣介氏が"おとなしいがうまい捕手"と評価しているのですから、地味ながらなかなかの選手だったのでしょう。

      http://eiji1917.blog62.fc2.com/

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    3. 大和球士の記述には具体性があり信用できそうです。

      関西学院中学は当時の関西では強豪なので当初は関西学院中学出身であろうと考えていましたが、関西学院野球部史に八木進の名前が見られませんでしたので疑問に思っていました。ありがとうございました。

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