分母に知名度、分子に打撃力を置いて数値化した場合、最も高い数値となるのは森田定雄ではないでしょうか。これだけは数値化できないテーマなので客観的証拠に基づき書くことができないのは残念ではありますが。
森田定雄は岐阜商業時代、昭和11、12、13、14年のセンバツと昭和11、12年の夏と、合計6回甲子園に出場しています。当時の夏は東海地区から1校の出場で、全国一の激戦区である愛知県(中京商業、東邦商業、享栄商業、愛知商業)代表と岐阜県(主に岐阜商業)代表が東海大会を戦って1校出られるだけなので岐阜商業の全盛期でも夏は苦戦しています。センバツには昭和8年は中京商業、享栄商業、一宮中学、岐阜商業が出場して岐阜商業が優勝、昭和9年は中京商業、東邦商業、享栄商業、岐阜商業が出場して東邦商業が優勝、昭和10年は中京商業、東邦商業、愛知商業、岐阜商業が出場して岐阜商業が優勝、昭和11年は享栄商業、東邦商業、愛知商業、岐阜商業が出場して愛知商業が優勝、という凄まじさです。昭和12年センバツには中京商業、東邦商業、享栄商業、愛知商業、岐阜商業と同一地区から5校が出場しています。
森田定雄は昭和11年センバツで8打数3安打、12年センバツで13打数4安打、13年センバツで11打数2安打、14年センバツで16打数5安打。11年夏は23打数10安打の猛打を記録して下級生ながら六番打者として優勝に貢献、13年夏は13打数2安打。甲子園通算84打数26安打、打率3割9厘5毛を記録しました(注:この記録は筆者が各種資料から集めてきた手計算によるものですので間違っている可能性があります。)。
岐阜商業時代は松井栄造、野村清(後に武史に改名、プロでは野村武史として有名です)、大島信雄という球史に残る三人の投手と甲子園に出場しています。昭和15年に阪急に入団し、5月5日にプロ入り初打席初安打を記録してから9試合に出場して26打数11安打4割2分3厘、既に決勝打を2本放っていることはお伝えしてきているとおりです。これだけの強打者がほとんど名前を知られていないところに当ブログの発掘作業の醍醐味があるわけです。
岐阜商業からは松井栄造が昭和18年5月28日、中国戦線における肉弾突撃で手榴弾の破片が鉄カブトを突き破り戦死。昭和20年4月6日、加藤三郎(岐阜商業では松井とバッテリーを組み明大に進む)は百里基地を出発、一旦機関故障で戻るが再出撃、今度は戻ってくることはなかった。加藤が特攻で散った直後、近藤清(岐阜商業から早稲田に進んだ名遊撃手)は岐阜商業の後援会長であった遠藤健三を訪ね、直立不動のまま加藤の特攻を報告する。「加藤三郎の伝言をお伝えにまいりました。一昨日夜、加藤三郎は元気よく突撃しました。加藤三郎はこれから行ってまいります、とのことでした。」
「で、近藤、お前はどうするんだ。」
「私は明後日の夜出発します。本日はお別れのあいさつにまいりました。」
加藤義男(岐阜商業から満鉄に進んだ三塁手)はビルマに散った。岐阜商業から慶大に進んだ名二塁手長良治雄も沖縄の海に散っている。
昭和11年の岐阜商業のメンバーはピッチャー松井栄造、キャッチャー加藤三郎、ファースト森田定雄、セカンド長良治雄、サード加藤義男、ショート近藤清である。ダイヤモンドを囲った6人のうち5人が戦死して森田定雄だけが生き残った。生き抜いた森田は戦後も昭和21年、22年に阪急に在籍するがかつてほどの活躍は見られなかった。
参考文献:朝日新聞社、毎日新聞社による甲子園史、及び1979年8月15日臨時増刊「週間朝日 甲子園大会号 追悼-戦火に散った名選手たち」
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