2014年5月31日土曜日

16年 南海vs巨人 10回戦


10月6日 (月) 中百舌鳥

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 南海 30勝36敗 0.455 神田武夫
0 0 0 1 0 0 2 0 X 3 巨人 49勝18敗2分 0.731 広瀬習一

勝利投手 広瀬習一   4勝1敗
敗戦投手 神田武夫 19勝12敗

二塁打 (巨)平山

勝利打点 水原茂 5


南海、2安打ながら全員残塁

 巨人は4回、先頭の川上哲治が中前打で出塁、中島治康が四球を選んで無死一二塁、平山菊二は左飛に倒れ、呉波の二ゴロで中島は二封、呉が二盗を決めて二死二三塁、楠安夫の遊撃内野安打で三走川上が還り1点を先制、三塁をオーバーランした二走呉は「6-5」と送球されてタッチアウト。

 南海は6回、先頭の村上一治が四球を選んで出塁、木村勉が送って一死二塁、岡村俊昭の一ゴロをファースト川上がエラー、一死一三塁から前田貞行の打席で同点を狙うスクイズを敢行するがウエストされて三走村上が三本間に挟まれ「2-1-2」と渡ってタッチアウト。前田は四球、神田武夫も四球で二死満塁、柳鶴震が押出し四球を選んで1-1の同点とする。

 巨人は7回、先頭の呉が中前打、楠が送って一死二塁、広瀬習一が右前打を放ち一死一三塁、トップに返り白石敏男が四球を選んで一死満塁、このチャンスに水原茂が決勝の2点タイムリーを放って3-1と勝ち越す。

 巨人先発の広瀬習一は南海打線を2安打に抑えたが11四球を乱発した。8回まで毎回走者を許し三者凡退は9回の1イニングだけ、しかし南海も1点しか奪えず、2安打ながら12残塁、しかも全員残塁であった。


 南海先発の神田武夫は京都商業の出身、巨人先発の広瀬習一は大津商業の出身。当時甲子園には京津代表が出場するので滋賀と京都の代表で京津大会を行い京津代表を決める訳で、上田龍著「戦火に消えた幻のエース 巨人軍・広瀬習一の生涯」では同年代の神田と広瀬は高校時代からライバルであったとされている。


 但し、広瀬がエースになったのは最終学年であり、それまでは内野手であった。また、当時の京都と滋賀のレベルには大きな隔たりがあり、京都球界は滋賀球界など歯牙にもかけていなかったと考えられることから、ライバル関係が成立する要素は見出せない。筆者の小学校から高校時代は千葉県高校野球の黄金時代でした。当時は千葉県と茨城県の代表で東関東大会を行い、甲子園に出場するのは東関東代表としてでした。筆者が応援していた銚子商業が甲子園に出るには、千葉県予選で必ずぶつかる最大の難関にして最強のライバルであった成東高校を降さなければなりません。実際、1972年~75年は千葉県予選で4年連続銚子商業が1点差で成東を降して勝ち上がっています。それでももう一つのライバル習志野に阻まれることもある訳です。74年、75年に2年連続で銚子商業と習志野が全国制覇を成し遂げましたが、「甲子園で優勝するより千葉県代表になる方が難しい」と言われていました。前述のとおり当時は東関東代表の座を茨城勢と争う訳ですが、はっきり言って茨城勢に負けるなどとは微塵も考えていませんでした。それ程レベルが違っていたのです。このような構図の中でライバル関係が成立するのは銚子商業、成東、習志野だけでした。百歩譲っても木更津中央と千葉商業が加わるだけです。


 それでも竜ヶ崎一高や取出一高が東関東大会で千葉勢を破って甲子園に出場することもあり、剛腕・戸田を擁する鉾田一高には勝てる気がしなかったのも事実です。広瀬と神田の時代は筆者が知っている時代の千葉と茨城以上に京都勢と滋賀勢には力の差がありました。当時の雑誌を見ても神田武夫の名前は広く鳴り響いており、プロ入り前には打者転向説がまことしやかに伝わるなどマスコミの注目を集めていましたが、広瀬習一の名前は記録としてしか見ることはできません。したがって、両者にライバル関係が成立する要素は見当たりません。






*広瀬習一は南海打線を2安打に抑えて4勝目をあげる。但し11四球を与えた。












*昭和15年、第17回センバツに出場した京都商業の神田武夫投手。










*昭和14年、第16回センバツに出場した大津商業の広瀬習一遊撃手。(いずれも「選抜高等学校野球大会50年史より)









2 件のコメント:

  1. 神田武夫、広瀬習一にライバル関係があったどうかはわかりませんが、少なくとも滋賀は京都に対抗意識はあったと思われます。
    現在の様に夏の甲子園大会が一都道府県一代表ではなかった時代、滋賀は京都の前に予選で悔し涙を流し続けていました。現状に見かねた「尚商会」の伊藤忠兵衛(二代目)らが中心となった「阪神滋賀県人会」が甲子園球場を一日貸し切り、滋賀のベスト4に試合をおこないました。これは甲子園球場が落成した大正13年から10年ほど続いたそうです。
    ただ、レベルの差は大きな開きがありまして、戦前は早大の大エースとなった若原正蔵(八幡商)をもってしても、夏の甲子園大会には出場する事はできませんでした。
    戦後になって昭和28年に八日市高が西舞鶴高を破ってようやく夏の大会に初出場となりました。

    http://eiji1917.blog62.fc2.com/

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    1. 当時の京都勢がライバル視していたのは愛知、大阪、兵庫といったところでしょう。下が上を目指すのは当然のことですが、上は更に上を目指すものです。
      広瀬習一が神田武夫を目標に研鑽を積んできたと見るのは妥当だと思いますが、京都商業時代の神田が広瀬をライバル視していたとは考えられません。

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