1958年2月24日生まれの飛鳥涼が覚せい剤取締法違反(使用)の容疑で警視庁組織犯罪対策第五課に逮捕され、1958年8月23日生まれのフリオ・フランコが現役復帰と伝えられています(生年月日はいずれもWikipediaより)。ASUKAは早生まれで一学年上となり、フランコは公称(自称かも)なので真偽の程は分かりませんが、筆者と同じ1958年生まれ(自称を含む)が世の中を騒がせていますので1958年特集といきましょう(笑)。当ブログは野球ブログですから同年代野球選手ネタとなります。
1958年生まれのNo1野球選手は久保寺雄二であったと確信しています。原辰徳の間違いでは?とお考えの諸兄も多いかと思いますが、高校時代の評価は総合力では久保寺が上でした。神奈川県の軟式球界で活躍(?)していた筆者は、東海遠征で静岡商業軟式野球部と静岡商業グラウンドで練習試合をやったことがあります。静岡商業の野球部グラウンドは硬式用と軟式用が二面取ってあって、軟式グラウンドからはるか向こうに硬式の練習風景を見ることができます。あの中に久保寺も大石もいたはずです。便利な時代になったもので、ヤフー地図等で航空写真を見ることができます。静岡県静岡市葵区田町の静岡商業野球部グラウンドをご覧ください。当然広くて立派な方が硬式のグラウンドです。しかも校舎から近い。明らかに差別待遇ですね(笑)。今も30数年前と変わらないようです。
No1チームは黒田真二、山崎隆造、小川達明、應武篤良を擁する崇徳高校でした。我々が高校3年の1976年センバツは圧勝しました。夏も連覇すると言われていましたがエース黒田の体調が優れず酒井圭一の長崎海星との“世紀の一戦”に敗れました。ピッチャーでは酒井と黒田が双璧ですが、矢張りサッシーに軍配が上がりますね。但し、プロでの実績では柳川商業の久保康生が上でした。豊見城高校の赤嶺賢勇も黒田、酒井同様プロではダメでしたね。甲子園で見せた送りバントをダイビングキャッチしたシーンは鮮明に覚えていますが、ピッチャーとしては「たいしたことねぇな~」などと生意気にも思っていたものです。
我々の高校時代、甲子園に4回出場した東海大相模はリアルに目の前で見ていました。筆者が1年の夏、母校が神奈川準決勝で、永川栄植を擁して前年のセンバツに優勝した横浜高校に敗れました。当然横浜が甲子園に行くものだとばかり思っていたら、何と決勝で東海大相模が横浜高校を破るという大番狂わせを演じたのです。一般には原、津末、村中の1年生トリオを擁する東海大相模が順当に甲子園に出場したと思われるかもしれませんが、神奈川県高校野球界に衝撃が走ったのは紛れもない事実です。
筆者が高校時代で最も不思議に思った出来事は東海大相模が甲子園に5回出場していなかったことです。実際、つい最近まで5回出たとばかり思っていたのですが、3年春だけ出ていなかったのです。それ程突出した存在でした。
筆者の母校が準決勝で永川の横浜高校とぶつかると言っても、勝つとはとても思えませんでした。こちらも軟式の練習がありますのでもちろん応援に行っているようなヒマもありません。まだ1年生ですから知っている奴が出ている訳でもありませんし他人事でしたね。当時の横浜高校は史上最強チームであったと思っていますが、その横浜を相模が決勝で破ったという話を聞いた時の衝撃は鮮明に覚えています。原や村中を見て、ニューウェーブが来てるなぁ~と感じたものです。音楽界もちょうどニューミュージックの時代に移ろうとしていた時でした。ニューミュージックの起源には諸説がありますが、筆者は尾崎亜美の「冥想」を起源とする説をとっています。何か新しい時代の到来を感じさせてくれる名曲でした。
甲子園で見た同期では東洋大姫路の弓岡のフィールディングが印象的でした。ショートでは西の弓岡、東の久保寺が定番でしたね。筆者は銚子商業のファンだったので宇野が3年夏の甲子園に出てくる前から知っていましたが。宇野が甲子園で見せた抜けたらサヨナラ負けという場面での三遊間奥深くの当りを逆シングルで捕えてワンモーションで一塁に刺したプレーは鮮明に覚えています。このプレーが中日のスカウトの目にとまりドラフトされたものでした。
高木豊は高校時代は全く知らず、中央大学時代も印象になく、同期である事を知ったのもつい先日のことです。辻発彦も高校時代は全く知らず、同期である事を知ったのは色々調べていた今日のことです(笑)。高校時代の印象が最優先されるという事実を確認できました。
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