昭和16年9月28日の朝日戦に完投勝利を飾った澤村栄治はこの日を最後にグラウンドから忽然と姿を消す。大道文(田村大五)著「プロ野球選手 謎とロマン」によると「10月2日、新婚まもない沢村家に再び召集令状がくる。」、上田龍著「戦場に消えた幻のエース 巨人軍・広瀬習一の生涯」によると「沢村栄治に二度目の召集令状が送られてきたのだ。広瀬が三勝目をあげた9月29日の夜、沢村の壮行会を兼ねて、都内の料亭で球団の幹部会が行われた。」とのこと。
「沢村応召」の記事は読売新聞には見られない。昭和16年9月24日付け読売新聞に掲載されている「第二節戦展望」には「・・・中尾、澤村に連投の精力なく、多田が肩を害したので投手力には重大な不安があり・・・」と書かれているが、10月3日付け「第三節戦展望」には「・・・中尾、広瀬中心に泉田、多田を控えとする投手力は必然的に中尾の酷使過労という悪態を招来し易く・・・」となっているので、この間に澤村に赤紙が来たと強く推認できる。
以前の新聞記事には「誰それ応召」の記事が掲載されていたが、この頃には兵役関連の記事は見られなくなっている。事実として、シーズンを約1か月半残しているにもかかわらず澤村の今季の登板は9月28日が最後であり、これ以降澤村の記事は読売新聞にも認められない。
日米開戦まで約2か月半と迫ってきた。先日お伝えしたとおり中河美芳も今季終了後「志願入隊」を迫られることとなる。時代は風雲急を告げてきた。
『巨人の光と影 三十年のすべて』(著:大井廣介)にも10月2日とありました。例の飯泉春雄マネージャーの暴行事件が起こった宴席でした。
返信削除・・・回復途上の沢村と、除隊して半年目の筒井修がが召集されたのは、シーズン中の十月二日だった。
沢村、筒井の壮行会が行われた夜、席を改めて小人数の席上で、飯泉マネージャーが、グラウンドで観客に親しく挨拶させてやりたかった。そうすべきではなかったか、といいだした。機会があれば行って参ります、帰って参りましたと、挙手の礼で挨拶をさせるよう段々なるが、しなかった人も随分ある。
どういう風の吹き回しか、藤本が、余計なことをいうなと、いうと、飯泉はいきなりポカリと手をだした。飯泉は拳闘の下地があるといわれ、大酒していると出血しやすい。
市岡専務の眼の前で、一撃を加えたのに、市岡は別段、コラ飯泉なにをするともいわないで眺めていた。
翌朝、藤本は出社して、市岡に辞任を申入れ、サッサとひきとった。一説では前夜のワイシャツを着用し、血痕がついていたといわれる。・・・
貴ブログの"2014年5月5日 16年 黒鷲vs巨人 9回戦"にコメントさせていただいた内容のように藤本定義は入営者の気持を察しての行動でしょう。ですが、飯泉が先に手を出してしまい、言葉足らずに受けとられましたが、挨拶するしないの理由を藤本は喋らなかったかもしれません。
http://eiji1917.blog62.fc2.com/
大井廣介と田村大五は同じ情報源でしょうね。但し、10月3日付け読売新聞の記事に澤村の名前がないので、10月2日では原稿が間に合わなかったかもしれません。
削除田村大五の記述は、当事者に直接取材している部分は信ぴょう性が高いと考えられますが、スコアカードを確認しているはずなのに事実と異なる記述も見られます。