2011年2月7日月曜日

13年春 阪急vsイーグルス 3回戦

7月3日 (日) 甲子園


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0  阪急      17勝11敗       0.607 重松通雄
1 0 0 0 0 0 0 0 X 1 イーグルス 16勝11敗1分 0.593 亀田忠


勝利投手 亀田忠    11勝5敗
敗戦投手 重松通雄   1勝1敗


三塁打 (イ)中根


歴史的投手戦


 剛の亀田、柔の重松による歴史的な投手戦となった。

 イーグルスは初回、一死後中根之が右中間に三塁打、バッキー・ハリスの左犠飛で1点を先制する。

 本日の亀田忠にはこのスミ一で十分であった。ヒットを許したのはフランク山田伝の4安打のみ。すなわち、阪急打線は山田が4打数4安打であるが、他は全員ノーヒットという結果であった。

 重松通雄はイーグルス打線を3安打に抑えて1四球2三振、亀田は4安打4四球1死球6三振。両チーム無失策という引き締まった試合であった。

 阪急の唯一のチャンスは6回、先頭の西村正夫四球、山田が一塁線にドラッグバントを決めて無死一二塁、翌日の読売新聞によると「・・・続く黒田はバントの構えから突如左翼に軽打して直球を呈しながら杉田屋の美技に・・阻まれた」とのこと。無死一二塁で三番黒田健吾はバントの構えからバスターヒッティングを見せたが左翼へのライナーとなり杉田屋守の好守に阻まれたようだ。

 「バスター」という言い方がいつから使われ始めたか筆者の知識では不明であるが、当時はまだ「バスター」という用語は使われていなかったでしょう。あるとしたら「エバース」であったはずであるが読売新聞の記述にはどちらも使われていない。因みに「エバース」は以前にもご紹介したとおりシカゴ・カブスのジョニー・エバースが得意としていたバントの構えからバットを引いて内野守備をかく乱させる戦法の事(2010年4月23日付け「12年春 阪急vs名古屋2回戦及び同24日付け「Tinker to Evers to Chance 」参照)。応用編としてバントの構えからバットを引いて打てばバスターとなるので、言葉は無くても行われていた可能性はあるが読売新聞の記述で当時既に行われていたことは裏付けられたのではないか。

 但しこの場合は野手の間を抜くゴロを打つのが鉄則であり、エンドランと併用することもあるのでライナーになってしまうとゲッツーのリスクを伴う。もちろんフライを打ち上げるのは論外ですが。私の大学時代には試合でも使っていましたのでバッティング練習でも「バスター」の練習はよくしていました。少なくとも昭和50年代の大学準硬式では「バスター」という言葉は一般的でした。意外とこの頃から流行り始めていたかもしれません。

 昭和48年夏の甲子園、怪物江川と1回戦で当たった柳川商業はバントの構えからのヒッティングで江川を苦しめ延長15回まで粘って1対2で敗れました。当時は「プレス打法」などと呼ばれ、まだ「バスター」という言葉は使われていなかったと思います。



*山田伝の4安打だけという珍しい記録を伝えるスコアブック





*亀田忠、重松通雄による歴史的投手戦






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