2011年2月6日日曜日

13年春 ライオンvs阪急 3回戦

7月1日 (金) 甲子園


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
2 0 0 0 0 0 0 1 0 3 ライオン 8勝19敗 0.296 近藤久
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 阪急  16勝10敗 0.615 浅野勝三郎 高橋敏


勝利投手 近藤久    1勝4敗
敗戦投手 浅野勝三郎 2勝2敗


三塁打 (ラ)大友 (阪)山下好


近藤久復活!


 ライオンは初回、先頭の坪内道則が右前打で出塁、中野隆雄の送りバントは捕邪飛に終わるが坪内が二盗を決めて一死二塁、送りバントを失敗した二番打者にとっては一塁に残ったランナーが盗塁を決めてくれた時が一番ほっとする瞬間です。水谷則一が二塁に内野安打を放って一死一三塁、このところ四番に定着してきた大友一明が左前に先制タイムリーを放って1-0、二死後煤孫伝が左前にタイムリーを放って2-0とする。なおも柳澤騰市が左前打で続き二死満塁、迎えるバッターは八番キャッチャー日野弘美、前回のスタメン時は一度もバットを振ること無く交代させられたが本日はアットバット、しかし中飛に倒れてチェンジ。

 ライオン打線は2回以降阪急先発の浅野勝三郎から3回の桜井七之助の中前打、6回の大友の左中間三塁打の2安打を放ったのみで7回まで無得点。阪急7回の攻撃で浅野に代打高橋敏が起用され、8回から高橋が二番手として登板する。

 ライオン阪急8回、高橋の代わりばなを捕えて先頭の坪内が右前打で出塁、今度は中野が送りバントを決めて一死二塁、水谷の左前打で二走坪内は三塁を蹴ってホームに向かう、レフト山下好一からのバックホームは中継のサード黒田健吾からキャッチャー大原敏夫に送られる、タイミングはアウトであったが大原が落球して坪内がホームインして3-0とする。

 今シーズン勝星の無いライオン先発の近藤久はここ二戦好投を続けており復調の兆しが見えていたが、本日は本来のナチュラルチェンジアップが効いて三連勝と好調な阪急打線を寄せ付けず、結局6安打5四球4三振の完封で今季初勝利をあげる。前回アテ馬に起用されたキャッチャー日野弘美は本日フル出場、打つ方は4打数無安打であったが近藤のクセ球をよくリードした。

 近藤久は幼少時に凧上げの際に凧糸で左手の腱を切る怪我をして左手が巧く開かないが、そこにボールを押し込んで投げる速球はナチュラルにチェンジアップとなり打者の打ち気をかわす。翌日の読売新聞には「近藤の大胆に投げ込むシュートボール」という表現が使われており、スクリュー気味に右打者の外角に逃げながら落ちていくのであろう。戦前版ヤクルトの石川というところか。

 スクリューボールを日本人が初めて知ったのは1971年に来日したボルチモア・オリオールズのマイク・クエイヤーのピッチングを見てからです。当時のオリオールズは「ダイナスティ」と呼ばれる王朝時代で、この年はジム・パーマー、マイク・クエイヤー、デーブ・マクナリー、パット・ドブソンの四人が「20勝カルテット」を形成しています。富山では巨人がパット・ドブソンにノーヒット・ノーランをやられました。史上最高の三塁手とも言われるブルックス・ロビンソン、三冠王フランク・ロビンソン、大ホームランで唖然とさせたブーグ・パウエル、後に巨人に移籍してきたデーブ・ジョンソンはその後大リーグの監督となり1986年ニューヨーク・メッツでワールドシリーズを制しました。

 一番を打っていたドン・ビュフォードは1973年に新球団太平洋クラブライオンズに参加しました。西鉄ライオンズから太平洋に変わったこの年は春先からビュフォードが大活躍して旋風を巻き起こしました。早速後楽園に見に行きましたが、昨年までの東映vs西鉄戦は観客の数が数えられるほどガラガラでしたが、この春の日拓ホーム(この年1年限り)vs太平洋戦は超満員でびっくりしました。関東中の旧西鉄ファンが押しかけて来たような騒ぎでした。西鉄ファンのうっ憤を晴らしてくれた最大の功労者こそがドン・ビュフォードだったのです。

 その後金やんとの遺恨試合を演出することになる訳ですが、あれは必要無かったですね。それほどビュフォードの活躍はセンセーショナルでした。


*日本にスクリューボールを伝えたマイク・クエイヤーはキューバ出身、1969年にサイ・ヤング賞を受賞している。打のロベルト・クレメンテと共にラテン・アメリカ系のパイオニアである。


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